Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.9.26

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大塩の乱関係論文集目次


「氷 室 の 狼 煙」その7

前 田 愛 子

1983.10『文化評論』より転載


◇禁転載◇

 おのぶは先ほどから幾度ともなく白くなった炭火へ新しい炭を足して男の訪れを待った。男たちは山寺の鐘が夕の刻を知らせても掃ってこなかったのである。隠居所へ戻って来たおのぶは炭焼きの源六が利子代うに運んてきた炭を火桶へ熾(おこ)して部屋を暖めいつ何刻、男が訪ねてきても良いように心を砕いた。どれほどの時が流れたであろうか。おのぶが脱いだ羽織を行燈へかけて夜着に着替えようとした途端、表の戸を密かに叩く音がした。
「新兵衛だす」
 男は辺りを憚って声をかけるのを躊躇(ためら)っていたのである。おのぶは戸を引いて男が家の中へはいってくるなりそ の胸に顔を埋めた。
「もうお出でやないのかと思うておりました」
 男はおのぶに促されて座敷へ坐る早々、懐から紙包を取り出した。まだ男の肌の温もりが伝わる包を手にしたおのぶは、眩しそうな眼差しを男へ向けた。
「何ですの?これ」
「あとで開けて見て下され」
男は中味については触れようともしないで照れ臭そうに眼を伏せた。そんな様子を好ましく思って紙包を開いたおのぶは思わず歓びの声をあげた。 「まあ、なんときれいな。これを私(わてい)におくれやすのか」
 黒い木地に紫の小菊を描いた差し櫛は、漆の光沢も深くしっとりしており一目で逸品物だと判別できた。差し櫛の見事な出来映えもさることながら、男が女へ櫛を贈るということは苦を共にしてくれという告白ではないか――、おのぶは二重の喜びで身が震え、しばらく礼をのべるのも忘れていた。
「明りを消した方が良い」
 男は行燈の灯が外へ洩れるのを気遺った。
「いやどす。消したらあんさんのお顔が見えしまへん」
心を解き放だれたおのぶは頭(かぶり)を振って男の眼を凝視(みつ)めた。
「ところで、本当のことを教えて下さりませ。私なに聞いたかて驚かしまへん。先前(さいぜん)からずっと考えておりましたのだすけど、今日のあんさん方の態度は何時もと違いますわ」
 おのぶは男たちの言動のなかに深い企みがあのるのを敏感に察知していたのだった。
「天満に火の手があがった場合はすぐ駆けつけよとは、どないな意味でござりますの」
 昼間、才治郎が藤助に念を押した言棄にふと胸騒ぎを覚えたおのぶは、男から眼を逸らさずに重ねて訊ねた。男は女の問いにしばらく応えなかったが、利発なおのぶに隠して反撥を買うより、事の次第をはっきり打ち明けて協力を求めた方が得策と肚を決めた。
「幕府の安易な貨幣増発策のため物価が高騰し、庶民が生活難に喘いでいるにもかかわらず、官位や役職は利権の具とされているのが現状てす。そればかりか政治も情実や請託で動かされてもはや空白化してしまっております。大塩さまはこうした御政道の刷新をはかるため、兵を挙げることを決意なさったのてす」
「兵を挙げる?!!」
 驚かないと誓ったはずのおのぶは事の重大さに絶句した。聞けば孝右衛門を初めその兄政野重郎右衛門の遺児、市太郎と儀次郎兄弟も共に企みに名を連ねているという。父が領主に楯突き打首になったあと儀次郎は叔父の孝右衛門の口ききで、才治郎より一年早く洗心洞へ入塾していたのだが躰を悪くして退塾し、今は孝右衛門宅へ引き取られていたのであった。
 おのぶは新兵衛から贈られた差し櫛を包み直すのさえ忘れて、孝右衛門の妻たつの切れ長の眸を脳裡へ浮かべながら、彼女は夫から何も知らされていないのだろうと思っていた。まかり間違えば命と引きがえになるかも知れない挙兵を知ったら、気の小さなたつは狂ってしまうかも知れない。男たちの止み難い正義感も判らぬではないけれど、日々の暮しを預かるおのぶは才治郎が参加することに正直いってある種の不安を抱き始めていた。新兵衛は急に顔を翳(かげ)らせた目の前の女を視(み)て言葉を足した。
「あんさんは今度のことで家名に疵がつきはしないかとさぞかし胸を痛めておられよう。このわたしもそのような目に遭ってきた人間ですから、お気持はよう判ります。しかし、その家を存続させる世の中の仕組そのものがやがて変ろうとしているのですよ」
 領主に楯突いてまで百姓の腰押しをした新兵衛は、家名の誇りとか家を守るとかいう考え方は、元々封建君主に奉仕する儒教がこの国に入ってきてからの思想で、それ以前の民、百姓は束縛されることなくもっと伸びやかに暮していたのだと語り始めた。彼はかつて在所の村で庄屋を務めていた頃、隣村の豪農の息子から安藤昌益という思想家の存在を知らされた時の感動を今も忘れてはいない。おのぶに挙兵に至るまでの過程を話し、協力して貰いたいと願っているうちに新兵衛はこれまで己れが確かめ培ってきた思想を、目の前の女にしっかり伝えて置きたいという思いにつき動かされた。それは男と女の関係を超越した人間としての信頼感から湧き上がってきた感情であった。おのぶもまた男の話のなかにぐいぐい引きずり込まれていった。〈いわれてみれば、この私はただの一度も自分が歩きたいと思った道を、選んで歩いたことなんぞ、あらしまへんでしたなあ〉〃女三界に家なし〃と言われた思想を根本においたこの世の仕組の中で、女は何時も男の後から歩くように育てられ、男の先を行く女は目引き袖引きして誹(そし)られるのが常だ。
「世の中の仕組をすぐに変えることは出来ないでしょうが、押しつもどしつしているうちに百姓たちの力も強くなり、やがては新しい世の中に変って行くのではないでしょうか」
 新兵衛は各地に展がっている一揆の例をあげながらそう言った。話し込んでいるうちにいつしか夜が明け染めるのか、どこか遠くで一番鶏の啼く声がした。新兵衛の話に耳を傾けていたおのぶは、男たちを引き止める手段(てだて)はもう残されていないのだと思い至った。
「私で役に立つことがございましたら手伝わせて下さりませ。治兵衛はあの通り石橋を叩いて渡るような息子ですさかい、きっと反対しますやろ。けど私は出来るだけのことはしとうござります」
「お家はん」
 翳った顔をあげた男は熱い視線を女へ向けると、深々と頭を垂れた。


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