Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.9.29

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大塩の乱関係論文集目次


「氷 室 の 狼 煙」その8

前 田 愛 子

1983.10『文化評論』より転載


◇禁転載◇

 梅の蕾はぼつぼつ膨らんではいても山里の二月は寒気が厳しく、朝方など軒先に氷柱を見る日が多かったが、才治郎と新兵衛は平八郎の内意を受けて村の百姓の間を駆け廻った。
 いよいよ挙兵が明日に迫った朝、治兵衛の許へ平八郎から使いが寄こされ、相談したいことがあるので孝右衛門と同道して至急、洗心洞まで出向くようにとの要請であった。治兵衛はその日の昼前に村を出て守ロヘ向った。
 才治郎は兄が大坂へ出かけたのを知ると村の若者を呼び寄せ、裏の薮で何本かの竹槍をつくらせた。そのあと納屋に集まり明日の手順について打ち合わせを始めた。おのぶはそんな男たちの様子を見て彼等を隠居所へ追いやった。出来ることなら歌や八重を企ての中へ巻きこみたくなかったのだ。その夜は前日にも増して慌しかった。栗粥をすすった若者たちは去り難い顔つきだったが、翌日に備えて躰を休めた方がいいという新兵衛の忠告を入れて、早ばやと隠居所から散って行った。
「新兵衛はん、今夜は泊っていって下さい。幟もこさえなあかんし、えーと、お母はん、なんぞ幟になるような布おまへんか」
 才治郎は「尊延寺村」とか書いた織を押し立てて行きたいのだと屈託の無い声で言う。
「河内木綿がおますので、新兵衛はんに書いてもらいなはれ」
 息子では字に力強さが無いからとつけ足しながらおのぶは納戸から布をとり出してきた。
「わいはこれから源六のとこへ行ってきますわ。大坂へ出て行くのは明日の昼の予定だすけど、念のため源六に大坂の方を見張らせますのや」
 才治郎は弾んだ声でそう言うなり戸外へ飛び出した。新兵衛が幟用の布地に村名を書き入れている間、おのぶは男のために人知れず仕立てておいた細かい縞目の半天を取り出し仕付け糸を引き抜いた。櫛を貰ったのが嬉しくて、それに応えようと用意しておいたのだった。新兵衛は見事な書体て書き上げだ幟を部屋の隅へ置くと、おのぶのこれまでの尽力に礼をのべた。
「まあ、そないな他人行儀なこと、いわんといておくれやす」
 おのぶは男が年下だったということを忘れて嬌(なまめ)かしいほど甘やかな声で言った。しかし男は真摯な表情を崩さず言 葉を継いだ。
「必ずや才治郎さんをお連れして戻ります。もし、万が一の事ががありましたら二人で能登の知人の所へ身を潜めるつもりです。冬の能登は辺鄙て探索の手も伸びますまい」
「万が一やなんて」
 おのぶはそれだけ言うと胸が塞がり言葉につまってしまった。
「思慮深い大塩さまのことですからその懸念には及びますまい。先程のことは私の取越苦労とお嗤(わら)い下され」
 新兵衛はおのぶの気を取りなすようにして言うと、それっきり口を噤んでしまった。
 何時の間にまどろんだのだろうか。目覚めると新兵衝の姿はおのぶの隣になかった。彼女は男の温もりをまさぐりながら、再び夜具のなかへ顎を埋めた。丁度その時、雨戸の外でパサリという物音がした。思わず起き出してそっと雨戸を繰ると、ようやく白み始めた戸外は見渡す限り一面の雪景色であった。先刻の物音は庭の松の積雪が落ちて雨戸に当ったのだろう。新兵衛は新しい雪が明け方に降り出す前に母屋へ渡ったらしく、飛び石の上にも植込みの間にも足跡は無かった。
 おのぶが身繕いを済ませる頃になると、律儀者の藤助がやってきて雪かきをしてくれた。才治郎より三つ年上の藤助はこの屋敷で生まれ、幼い時分から彼の父親同様に陰日向なく働いてくれる。母親は藤助が物心つくころ村を出奔して行ったきり消息も定かでない。
 やがておのぶが母屋へ顔を出すと才治郎と新兵衛は紺の股引に半天姿という軽い出立で幟用の樫の本を削っていた。
 朝餉をとる頃になってまた降り出した雪が半刻ほどして止むと、源六が転がり込むようにして裏山から駆け降りてきた。
「才治郎さん、火の手が上がりましたで!!」
 源六は喘ぎ喘ぎそう言うと土間へ坐りこんで荒い息をついた。
「顔見知りの木地師が生駒の方からやってきたので確かめたら、やっばり火の手は天満方面に間違いないとのことですわ」
 ようやく人心地のついた源六は寝不足の眼を精いっばい見開いて報告した。
「さよか。木地師の情報なら間違いない。彼等は甲賀者と並ぶほどの情報通やさかい。とにかく源六は一息ついたらそのこと、向かいの忠はんへ知らせてきてんか」
 才治郎はそういい置くとすぐ藤助を呼び、新兵衛ともども村の若者へ挙兵の刻を触れて廻るよう指図した。二人が右と左に飛び出したあと才治郎は急いで居間へとって返し、揃えておいた大小を腰へたばさみ野羽織をひっかけて土間へ降り立った。おのぶは見違えるような息子の姿に思わずみとれていた。


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