Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.4.29修正

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「伝 承 の 背 景」

政野 敦子

『大塩研究 第18号』1984.12より転載


◇禁転載◇


 興味深い伝承が残されている政埜幸子さん(当主圭一氏夫人)の家は、東大阪市衣摺(きずり)三丁目(旧河内国渋川郡衣摺村)に元禄時代の建築と推定されるものが、一部修復しただけで現存している。

 衣摺村は、河内平野のほぼ中央、古大和川左岸に位置する典型的な綿作地であった。近世中期以後村は二分され、幕領六一七石六斗二升三合と、淀藩領四九六石七斗八升六合の両支配になり、天保六年(一八三五)以後淀藩の一円支配となった。

 淀藩領の庄屋をつとめていた熊蔵は、天保六年六月「庄屋勤中出入の腰押いたし領主役場之申渡不相聞候」(『浪華異聞』)という事件により、庄屋役を罷免させられて村払いになった。熊蔵は、杉山三平と名を改めて、所々を立廻り、天保七年九月から十二月までは加賀国本泉寺(東本願寺末)に滞在し、その後河内国茨田郡守口町(現在守口市)の大塩門人白井孝右衛門の世話で、天保八年二月七日から洗心洞に住み込み、寄宿塾生の世話をしていたが、同月十九日の騒動に加わった。孝右衛門も衣摺村の生まれで、政野重郎右衛門(八代目)の弟にあたる。生家では三郎右衛門と名のっていた。政埜家と政野家は親類である。政埜家は助右衛門を襲名し、村では、「すけよんさん」「じゆろぁはん」と呼び、古老の話では村の手まり唄にうたわれた村の有力筋の家柄である。政埜家は明治になって「野」を「埜」にかえている。 政埜家は遺憾ながら古文書はほとんど無いが、江戸時代の家屋敷、蔵書や家具・調度品からみて豪農であったと考えられる。

 大塩の蜂起に先立つ施行に際し、衣摺村の施行札三十枚(一朱金三十枚)を大塩邸へ受取りに行ったのは、重郎右衛門の子市太郎で、叔父孝右衛門の指図によるものである。重郎右衛門は、文政十一年(一八二八)「衣摺村大騒動一件」により死罪に処せられ、欠所になっており、孝右衛門は親代りの存在であった。市太郎の弟儀次郎は天保元年洗心洞に入塾、同七年病気で退塾し、従弟にあたる白井彦右衛門(孝右衛門の子)のもとに身を寄せていた。騒動に際し、市太郎は淡路町で捕えられ、儀次郎は、叔父孝右衛門の指図で松江町の貸座敷に滞留して西町奉行所に放火する手筈のところ、大塩勢の敗北を聞いてここを逃げ出して捕えられ、共に牢死した。さらに、孝右衛門の伯父正方は、衣摺村に住んでいたが、子の八左衛門に家督を譲り、隣村大蓮(おばつじ)村の大蓮(だいれん)寺(古老の話によると「おれんじ」という)隠居所知足庵に留守居として住んでいた。二月十九日夜、ひそかにここへ立寄った孝右衛門と三平は食事を与えてもらい、身なりを改めたことにより、正方は捕えられて牢死し、知足庵は欠所になった。八左衛門も騒動に参加して、行方知れぬままである。

 ところで、政埜家は、いま都合により屋敷見取図を示しえないのは残念であるが、建築上やヽ特異な形式で、座敷の押入れから奥へ抜ける小部屋があって、かくれ間(おちまとも)と呼び、屋外に出られるようになっている。また、仏間の後面(西側)と側面(南側)の二方は壁であるが、北側は鹿の墨絵のふすま(半間、片開き)になっていた。この部分は昭和五十年、壁に替えられたが、仏壇の前に坐ってみると、ふすまが外側へあけられると、仏壇の扉が開いている場合でもその下部は約五十センチ四方の広さで通じることがわかる。同家は、このほか門のくぐり戸がせまく低いのは、大勢の人が一度に入り込めないためだとか、地震に備えて、かど口の大戸は戸の中に小さい戸がはめ込まれて二重になっているなど、云い伝えられ残されている。屋敷の周囲は高さ一・八米の土塀で、西南角に地蔵尊が祀られ、その前に道標があり、下部は埋まって読めないが、古老の記憶とあわせると、「東すぐ志ぎ(信貴)山」「西すぐ天王寺」「南すぐ平野」「北すぐ玉造」ということで、村の主要な道であったと考えられる。

 なお、熊蔵(杉山三平)も政野家親類と私は祖母や母から聞いているが血縁関係はいまのところ明らかでない。


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政埜幸子「我が家の大塩様


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