Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.5.3訂正
2000.2.21

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「我 が 家 の 大 塩 様」

政埜 幸子

『大塩研究 第18号』1984.12より転載


◇禁転載◇

 大塩様につきまして、東大阪市衣摺、もと河内国渋川郡衣摺村の拙宅に言い伝えられておりますことを記させて預くことになり、乱文をがえりみずペンを走らせました。その言い伝えと申しますのは、祖母から聞いた話でございます。

 祖母は、明治十六年(一八八三)生れで、二十三歳の時友井村浅田家より嫁いでまいり、昭和四十四年に亡くなるまで、約六十四年間この家で生活いたしました。祖母の夫は早世しましたので、これからの話は、舅(天保十一年生れ、慶応元年に摂津国東成郡今福村藤田家より婚養子、大正八年八十歳歿)より聞かされたことだそうでございます。

 それは二つありまして、第一は、かくれ間に大塩さんがかくれておられたこと、第二は、杉山三平さんの命日には、仏さまを拝むこと、でごさいます。

 かくれ間は、仏間南隣り八帖にあり、床の間の右のふすまを開けると、二帖の板の間になり、仏間の後を通ると前裁へ出られるようになっています。そこは、昔のまヽで荒壁になり、今は物置同様にしております。

 祖母の存命中は、祖母の夫の姉娘(河野貞枝、河内道明寺村の松永家長女、明治三十年生れ)さんが時折遊びにみえ、かくれ間でかくれんぼをしたことや、長じてからは、おじいさんの体をさすりながら聞いた大塩さんのことや、だれとは判らないが裸馬に白装束でのせられて連れられた昔話を、なつかしげに話されました。また或る時は、「証拠もないと仕方がないし、一べんこの天井裏をみてみたら」とおっしゃいました。

 後日、天井より出で来たものと言えば、鼻緒のない黒ずんだ女ものの下駄の片方だけでした。おばさんは、「大塩さんに関係あるのかしら」と考えておられましたが、「これは庭下駄ですな、まあ大事に残しておいた方がよろしいなあ」とおっしゃり、三人でしげしげと眺めました。でもこれでは何の証しにもなりません。

 それから何事もなく年月がたち、或る日東大阪市史編纂室の方がおみえ下さり、屏風に目をとめられ、「洗心洞主人」とありますから、大塩平八郎のものですね。これは木版か石版で刷られたものと思います」とお教え下さいました。祖母にたずねますと、この屏風は、近くの道具屋に貼ってもらったもので、刷りものは蔵にしまってあったものの中から選んでもらったとのことでした。こうなりますと、誰か他に知って下さる方がないものかと、お参り下さった先々代の光泉寺御老僧さま(昭和四十年に九十一歳で歿)に、「大塩さんがうちへかくれられたことお聞きでございましょうか」とたずねました。「いやそれは聞いてませんが、うちのお寺の縁の下にかくれていられたと、親より聞いていました」とお答え下さいました。

 そうこうするうちに祖母も他界し、昭和五十年に家を修理することになり、以前東大阪文化財保護委員会より家をさわるときは申し出るようと書面を頂いていましたのでたずねました。すると「仏間の辺りが特殊なので、柱と壁は、なるべくそのままに」とのお返事でした。主人と相談の末、言い伝えだけで何の証拠もないし、このままだといたみもひどくなる一方、思いきって座敷に違い棚を造ろう、と言うことになりました。工事は、東の間から西へと着々と進み、座敷の手前までせまりました。

 と、その時、初めて衣摺村出身の政野敦子様が同じく同級生の野口良市氏(工務店主)と御一緒においでになったのです。政野様は、「実は、私方は大塩様と深い関係にあることが最近になってわかりました。ついては、お宅にも大塩様の書が貼ってあると野口さんから伺い、突然よせて頂きました」とおっしゃいました。私はびっくりしてしまいました。どうして私の家が大塩さんとかゝわっているのかしら−、今まで、ぽつんと点だけだった存在。それが政野様との昔の親戚関係により、点と点か結ばれて線となり、今までのことが私なりにわかった様な気がしました。そこで、かくれ間はそのまゝに大切にすることに決めました。

 つい先日(五十九年七月)分家の政埜利治さん(祖母の夫の弟の長男、枚方市北楠葉在住)に会い、昔のこと何か聞いてませんかとたずねました。ちょうどそれは分家の法事の席のことで「おもやは今でもお茶わんみたいな大きなお仏飯(ぶつはん)(おっぱんともいう)供えたはるんですか」といわれました。「いいやそんな大きのとちごて普通のあれと一緒よ」と答えながら、小さい頃の記憶をたどっても、やっぱりあの普通ものです。「うちのお父さん(政埜武信、明治十六年生れ)の小さい頃はずっと大きなお仏飯で、大塩さんに食べてもろてからやそうなんです。だから今でもそうかしらと思ってました。僕その話お父さんから何遍も聞かされました」とのことです。あっそう言えば、昭和五十年に古いお仏壇と一緒に東大阪市の文化財倉庫にあずけたあの金属の、真鍮色の背の高い御仏飯のことかしら、とふと思いました。

 それから、第二の杉山三平さんのことは、命日もわからず、過去帳にもありませんでしたが、政野様がおいで下さった折、はっきりと政野家一族とわかりました。大塩の事件の少し前に大塩家に入った人で、もと衣摺村の庄屋熊蔵のことでした。

 こうして、色々と思いをめぐらせると、不思議なことが多く、約百五十年前、私共の先祖助右衛門が大塩さんに教えを受けられたのではないでしょうか、そしてあの木版を頂かれ大切に蔵へしまわれたのではないかと思います。その後、大塩事件が起り、かくれ間においでになり、私共の前裁より塀をこして三軒隣りの光泉寺の縁の下へのがれて行かれたのではないでしょうか。

 この言い伝えについて、昭和三十年頃より、四十年にかけて、河野のおば、そして市史編纂室の方、光泉寺御老僧、昭和五十年の政野様との出会い、分家政埜利治様の話とあわせてみますと、様々なことが明るみに出てまいり、かくれ間が語りかけてくれたようで、これも御先祖様のお引き会わせと有難く思う此の頃でございます。

 


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