Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.5.28

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎と河内国衣摺村」
その3

政野 敦子

『歴史研究 第181号』1976.2より転載


◇禁転載◇

三、騒動への参加

 騒動に際して儀次郎は孝右衛門とともに、平八郎に命じられて東西両町奉行所に放火する手筈であった。

 二月三日孝右衛門は忰彦右衛門が病気のため出養生するという理由で、松江町の貸座敷を借りうけた。その後十五日になって、儀次郎は孝右衛門のもとに招かれて委細を打明けられ同意して、彦右衛門の下男と名のって貸座敷に滞留した。

 二月十九日朝、大塩一党は決起した。東組与力朝岡助之丞宅へ大砲を打込むとともに、大塩宅に火を放っで気勢をあげ、天満の所々に大砲・火矢を打放ってあたり一帯を火の海にしながら、難波橋を渡って北船場に入るころ、大塩の兵力は、天満に火事があれば駈けつけよとの約束に従って馳せ参じた農民たちも加わってふくれ上がっていた。

 市太郎も駈けつけた一人であった。高麗橋附近で、衣摺村の親類八左衛門が大塩勢に加わって打殺されたときいて驚き、たしかめようとするうち大塩勢に合流したが、淡路町の衝突で捕方に打立てられ、混雑に紛れる中で捕えられた。

 三平は、大塩邸に来てからわずか十二日しか経過していなかったが、最初から大塩の陣列に加わったことについて、彼は、十九日早朝目ざめたとき、大井正一郎が平八郎の命によって、蜂起に反対した宇津木矩之允を殺害したところを見かけた。このときすでに、孝右衛門・正一郎、儀三郎・周次らは着込みをつけ、白鉢巻をし、槍・長刀・鉄砲をもたづさえていた。取調べではこのとき加勢を命じられたので、客易ならざる企てとは思ったが、是非なく同意したという。

 大塩勢は、奉行勢と内平野町で衝突し、一党離散して百余人となり、さらに淡路町の衝突で大塩勢の梅田源左衛門が、玉造口与力坂本鉉之助に鉄砲で打倒され、大塩勢は敗北して夕刻に騒動はおさまった。

 平八郎は各人随意に立ち去るように命じ、平八郎以下主だった者十四名は、避難者にまぎれて夜七ッ時ごろ大川の船着場八軒家へ出た。三平は孝右衛門とともにこの中にいて、平八郎父子に従って船に乗った。天満附近を上下しながら船中で行先について相談し、やがて順次上陸したが、三平と孝右衛門は平八郎に従って最後に船を上がり、下寺町あたりで一行とわかれるとき、孝右衛門と三平は、平八郎から、百姓であるからどのようにでも身をかくしで命を保つよう諭され、金五両を与えられて袂をわかち、二人は十九日夜九ッ時ごろ河内国渋川郡大蓮村大蓮寺隠居所にいる正方のもとをひそかに訪れた。

 正方はもと衣摺村に住んでいた。文政九年忰八左衛門に百姓株を譲って剃髪し、隣朴大蓮(おばつじ)村大蓮寺の門外にある隠居所(知足庵)留守居として住み込み、先住住職死亡届後、後任住職がきまるまで寺番をつとめていた。正方は孝右衛門の伯父で、市太郎の父重郎右衛門にとっても伯父にあたる。

 私の家に「〔 〕(欠損)九戌歳三月十九日 釈正方」としるした紙片が残っている。これにより正方が牢死したのは天保九年三月十九日と推定される。正方が住んでいた大蓮寺は中将姫ゆ かりの寺で、明治四年廃寺となり、寺の跡といえば中将姫の供養塔と石塔一基あるのみである。

 正方は二人の求めに応じて、その夜たまたま止宿していた衣摺村の百姓わきに命じて湯づけを食べさせた。三平は鋏を借りて孝右衛門の髪を切って剃髪同様の姿となり、孝右衛門はあり合せの袈裟と頭布と観音経一巻を、三平は袖無羽織をもらって立去った。

 正方は忰八左衛門が村方を出たまま帰らず、徒党に加わっているという風聞をきいて心をいためていた。

 八左衛門は、『浪華異聞』によると、「行方相知不申候」とあり、関係者の吟味中もまだ逮捕されていなかったようで『浮世の有様』は、大坂町奉行所与力瀬田済之助義父瀬田藤四郎・衣摺村市太郎らとともに「吟味以前縊死又は欠落或は吟味中病死」の中に八左衛門の名をあげている。

 ところで、正方のもとを立去った二人は、予定の紀州高野山への道を行かず、道を転じて伏見へ向ったが、二十日夜五ッ時すぎ、豊後橋の上で召捕られた。一応伏見奉行加納遠江守の手で取調べの上、二十五日大坂へ引渡しとなった。二人は指図役以下与力・小頭・足軽・床の者等六十余人、三十石船三艘に分乗するという厳重な警備のもとに大坂へ送られたのである。

 一方、松江町の貸座敷に滞留していた儀次郎は、二月十九日出火に際し、かねて平八郎から貰いうけた刀・脇差を帯して、約束の孝右衛門を待ちうけていたが、誰も現われず、そのうち大塩勢が捕方に打立てられて散り散リになったという取沙汰を聞き、恐ろしくなって所々に身をかくしていたが、ついに逮捕された。

 儀次郎は五月十八日大坂牢舎で病死し、市太郎も牢死した後塩漬にされ、落着のとき取捨てとなった。市太郎が書いた、天保二年「石塔再建入用帳」の末尾に、「政野市太郎年二十一歳、同母よふ年四十三歳」とあることから、市太郎行年二十八歳。

 孝右衛門も四月二十八日病死、翌天保九年九月十八日の処刑まで生きていた三平とともにこの四人は死罪の判決が下された。正方は中追放に処せられたが前述のように牢死している。

 衣摺村にはつぎのような伝説が残されている。

 私の母が「市太郎が死刑になるとき、衣摺村から多勢見に行ってやってくれたそうな。あんな若い男まえ(美男子)の、ええ人がなんで殺されないかんのやと泣いて帰ってきたそうな。」と私に語ってくれたことがある。市太郎も儀次郎も処刑前に病死しているので、これは三平の最期のことに聞連した伝承であろう。私の家の親類にあたる政埜家(政野姓でめったが明治以後政埜姓)では、「三平さんの命日は、ようよう拝まないかん」と言い伝えられていたが、三平がどのような人なのか、な ぜ拝むのか、命日がいつなのかわからないということであった。

 同家は江戸時代の邸が一部修復しただけで残っており、建築上やや特異な形式で、座敷に押入れから奥へ抜ける小部屋があって、「大 塩さんが隠れていた」として伝えられている。同家近くの光泉寺の床下にも平八郎が隠れていたとの口碑もある。大塩与党のだれかか衣摺村に一時のがれたことも予想されるのではなかろうか。


おわりに

 衣摺村には、まだこのほかにも大塩平八郎と関係した人があるのだろうが、今のところその史料を見出していない。私の家の一族がこのように平八郎とかかわりがあったのは、平八郎が農村に深い関心を寄せ、村役人やいわゆる豪農とよぱれる者を門弟にしていたことによるのであろう。

 市太郎や孝右衛門が書いた文書や、市太郎が愛用したらしい辞書、祖母から母へ絹糸を入れて大切に伝えてきた文箱を改めてよく見ると、桐に上げ羽蝶、つまり大塩家の紋をえがいたものであり、辛うじてひそかに残し伝えられたこの品々は、平八郎と衣摺村の関係を物語るもので、これを手にとるたびに曾祖母の兄たちを偲ぴ、研究への意欲がわくのである。



【参考文献】 幸田成友『大塩平八郎』 岡本良一『大塩平八郎』 藤本 篤『大阪府の歴史』 佐々木潤之介『幕末社会論』 酒井一『大坂書林河内屋のことなど』(「伊丹史学」第二号) 『浮世の有様』(日本庶民生活史料集成 第十一巻) 『浪華異聞』(大阪府立中之島図書館蔵) 『加美村誌』(同) 八木哲浩『近世の商品流通』


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相蘇一弘「大塩の乱の関係者一覧」その1
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