Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.9

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「天命を奉じ 天討致し候」 その2

松原 誠

『時代小説大全』(別冊歴史読本 98春号)
新人物往来社 1998.3 より転載


◇禁転載◇

 大塩父子が、探索方のわずかな綻(ほころ)びを見つけて、市内油掛(あぶらかけ)町の美吉屋方に転がり込んで来たのは、決起に失敗して六日目の先月(二月)二十四日の夜だった。
 油掛町は、商いの中心船場とは堀割の西横堀川をはさんで向かい合った東西に長い町屋である。美吉屋は表店で、手拭い地の仕入れ卸しを営んでいる。
 旅の乞食僧に変装した大塩父子は、あたりに気を配りながら美吉屋の店の前にたどり着くと、すでに閉まっていた表戸の潜(くぐ)り戸をコツコツと叩いた。漆を流したような雨催いの湿めった闇が二人を濃くつつみ込んでいる。時刻は五ツ(午後八時)下がり、美吉屋では、家族と使用人は皆二階に上がり、主人の五郎兵衛がひとり帳場でその日の商いを帳付けし ていた。
「備前島町の河内屋から参りました」というくぐもった声を聞きつけた五郎兵衛は帳場を出て、潜り戸の心張棒を緩めた。河内屋とはふだんから取引きがあり、不審には思わなかった。戸が外側から強い力で引き開けられたかと思うと、そのとたん濃い鼠色の木綿合羽を羽織った影が二つ飛び込んで来た。
「ごめんっ」と言うよりも早く、二つの影は三和土(たたき)をまたいで框(かまち)に躍り上がった。枯葉が数枚、いっしょに舞い込んで来た。てっきり押し込みに入られたと思うと、五郎兵衛の口の周りはこわばり、手足が突っ張った。
「驚かせてすまぬな、美吉屋。わしは大塩じゃ、これはおまえも見知っておろう悴格之助――。しばらく世話になるぞ、なに二、三日のことだ」
 饅頭笠をとった顔は、頭を剃り上げてはいるものの忘れもしない大塩平八郎に間違いはなかった。二人は、草鞋脚絆の旅の僧に似せた風体をしており、手にはそれらしく数珠を掛けている。
 泥まみれの草鞋を手早く脱ぎ捨てると、父親の方が、
「おまえのところに、たしか離れがあったな、そこへ匿(かくま)ってくれればよい」
 まるで以前から約束していたことの実行を命じるような口調だった。五郎兵衛は、魂のないあやつり人形が傀儡師(くぐつし)にそ うするように、父子を離れに案内した。自分が今どのような罪を犯しているのか、五郎兵衛の頭には大きな穴があいたように何の考えも浮かばなかった。
 ただこれは夢でないな、とは思った。畳の上に父子の着衣から落ちこぼれた泥や藁屑が点々と染みのような線を這っていたからだ。
(大塩様が与力だった頃、一度だけこの店をお訪ね下さった。そのとき離れ座敷に招き入れたことがあったが、それを覚えておいでだったのだ)
 十数年も昔あったことを思い出したのは、離れの入口の板扉に外側閂(かんぬき)をかけて帳場に戻って来てからのことだった。大塩という人物の執念に、薄汚れた乞食僧のみなりが重なり、五郎兵衛の身体は不意に怖気立った。
 足音を殺して階段を這うように上ると、針壮事の手を止めたまま舟を漕いで居眠りをしていた妻のつねを揺り動かした。
「これ、起きろ、つね。どえらい難儀が降りかかって来よったでぇ」
 とにもかくにも大塩父子は、御上が必死に追っている疫病神だ。美吉屋夫婦の報われることのない闘いが翌日の夜明け前からはじまった。数日たってからひとり娘のかつも加わり、親娘三人で離れの二人の面倒を見ることが、商いよりも重い日課となった。
 美吉屋では手代一人と小僧の四人、それに下女のきぬの都合六人が、夕食後はすぐに二階にあがって寝る。風呂屋に行く者は裏の木戸から出入りする。雇い人たちに大塩父子が離れに隠れていることを絶対に感づかれないよう、朝夕二回二人に食べ物を差し入れするのが親子三人のつとめであった。
 毎日の食事の仕度を、下女のきぬから急に取り上げるわけにはいかない。炊く米の量を増やしたりしたらかえって怪しまれる。夫婦が話し合ったすえ、自分たちの飯を少しずつ削って紙に取り分け、神棚と仏壇にお供えする振りをして奥の離れに届けることにした。差し入れの合図も格之助とつねの間で取り決めた。コツコツと軽く二つ叩き、ほんの少し間をおいてコツコツコツと三回つづける。また汁ものは一本の竹筒に入れて、飯といっしょに運ぶことになった。
 朝晩とも飯を削ぎ取られる夫婦は、時折交替で外に出ては屋台店のうどんをかっ込んだり、囲楽に食らいついたりして空腹を癒した。だが、反賊を二人までも匿っているという恐怖感と心の重荷は、大塩父子の潜伏が長引くにつれて美吉屋の夫婦を蝕(むしば)んで行った。六十二歳になる五郎兵衛は町人髷も満足に結えないほど髪の毛が落ちて地肌が透けて見え、つねもまた五十とはとても思えないほどの老婆の相に、このひと月近くで面変わりした。



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