Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.12.14

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「天命を奉じ 天討致し候」 その14

松原 誠

『時代小説大全』(別冊歴史読本 98春号)
新人物往来社 1998.3 より転載


◇禁転載◇

十四

「われらごとき者 草の蔭より常に察し悲しみ候得どもこの節米価いよいよ高直(こうじき)にあいなり しかるに大坂の奉行並びに諸役人とも万物一体の仁を忘れ得手勝手の政道をいたし」
 格之助の眼は血走り、その先を追った。
「蟄居のわれら、もはや堪忍なしがたく有志の者と申し合わせ諸役人をまず誅伐いたしつづいて驕(きょう)に長じおる市中の金持どもを誅りく申すべく候」
 終りに近い次の三行にやっとたどりつき、格之助の目が釘づけになった。
「君を誅し 天討を執り行ひ候誠心のみにて もし疑はしく覚え候はばわれらの所業終のところをなんじら眼を開きて看よ」
(身を捨てて仁をなす、文字どおり捨て身の決意か)
 一読した格之助を、爽やかな感動が揺さぶって離さなかった。芳しい花の香を胸の奥まで吸ったときのような陶然とした気分に似ていた。
 養父は、跡部からうけた恥辱を堪え忍ぶよりも、二十年に及んで心魂を傾けて来た「天地万物一体の仁」に殉ずる道を選んだのだ。「天地万物一体の仁」とは、つづめて言えば、人間を含め大地宇宙に箸生存するものすべてに限りなく慈愛を垂れるのが、政道の根本でなければならないとする考え方である。与力として治政の末端を担ううちにぶつかった苦悩を厳しい学問修行と思索で乗り越え、そのすえに中斎がたどりついた醇乎(じゅんこ)とした道理であった。
 養父の学問が現実の世の中でどれだけの妥当性があるのか、格之助自身はしかとはわからない。正直言うと養父はあまりにも完全な美しさというものを夢想しているような気がしてならない。しかし山道が嶮峻であればあるだけ、頂上めざして登りつめようとする養父の愚直な後ろ姿が大きく見えた。
 (天討を執り行ひ候試心のみにて、か)
 書斎の天井をとおして天と向き合って昏睡しているのだろう。その養父の寝顔を見遣った格之助の胸にそのとき愛惜の感情が動いたのは確かだった。
 出来上がった檄文をどうするのだろうか。その後格之助が注意深く見ていると、中斎は誰にも読ませずにかねて知り合いの版木師次郎兵衛にみずから持参して板刻させた。文字の数は優に二千字を超え、ふつうの彫り方では中身が露見してまう。中斎が出した注文は、横に五、六字ずつ将棋の駒に見立てて一字一字彫るようにというものだった。
 むろんそのために、檄文の原文は、あらかじめ横長に千切りした形で持ち込んだ。
 彫りあがった何百本もの横長版木を木枠にはめて版摺りに当たったのは、内弟子の吉見英太郎と河含八十次郎の二人である。二人は深夜中斎の書斎に閉じ込められた形で、その作業に使われた。五枚の紙を一組として横に貼り合わせた檄文が、何百組か出来上がった頃には師走もなかばを過ぎていた。
(うむ、これでよし)
 檄文は全面黒い血で染めた宣誓書のように見え、中斎は満足げにうなずいた。
 天保七年の年の瀬も押し詰まると、もともと政治結社ではなかった洗心洞は、檄文をめぐって門弟たちの間に動揺が広がった。年末年始の挨拶に洗心洞を訪ねた門弟たちは、そのつどひとりひとり書斎に引き込まれて檄文を手渡され、すぐその場で読むよう中斎に命じられた。
 一読した門弟たちは、当然のこととして趣旨に賛同し、挙兵蜂起に加担するよう師に求められた。養父の心根に同情を寄せていた格之助が率先して署名血判をしたのはやむを得なかったが、ほとんどの者は、師の有無を言わせない裂帛の気魄に押され、血が熱を発したところで思わず署名捺印した。もともと中斎の正論に魅せられて集まっていた洗心洞の門弟にとっては、師に抗(あらが)うことは容易ではない。

 だが無理は破綻を生む。東町奉行所の同心だった河合郷右衛門は、企てに賛否を明らかにしないまま幼い三男を連れて姿を隠してしまった。そして挙兵の前日に至って、やはり東組の同心平山助次郎が、師中斎に蜂起の企てがあると口頭で密訴に及んだ。
 駆け込み訴えは、これで終わらなかった。挙兵当日二月十九日の早朝には、檄文の版摺りを命じられていた吉見と河合の二青年が、作業中盗んで懐に隠しておいた一枚の檄文を持って注進におよんだ。証拠としてこのとき差し出された檄文で跡部は、まさかとたかをくくっていた大塩の反乱が用意周到のものであったことに驚き、大坂城代に急報して鎮圧の準備におおわらわになったのである。
 門弟の中でただ一人、連判状への署名を拒否して師を非難してやまなかったのは、塾頭の宇津木矩之允だった。宇津木は近江彦根藩の家老の弟で、中斎の盛名にひかれて六年前に入門し寄宿生となっていた。その宇津木は一昨年の春、本人のたっての要望で長崎へ遊学の旅に発った。しかし飢饉による大坂市中などの悲惨な様子を噂で聞くにつけ、激発しやすい師に危うさを感じて、急遽帰坂したのだった。
 まだ二十九だった宇津木は、入門した当初から秀才の誉れが高く、師も一目おく存在だっただけに塾頭の挙兵反対には手を焼いた。



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