Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.12.18

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「天命を奉じ 天討致し候」 その15

松原 誠

『時代小説大全』(別冊歴史読本 98春号)
新人物往来社 1998.3 より転載


◇禁転載◇

十五

「なぁあんたはん。あの二人のことやけど、ここを出たいと思っといても路銀の持ち合わせがないんと違うやろか」
 つねにこう言われ、今同じ考えにふけっていた五郎兵衛は、びっくりしてわしもそない思うと、相槌を打った。いつもひそひそ話をかわす店の帳場の、木格子を引き廻した結界である。さっき遠くの方で九ツ(午前零時)の鐘が鳴ったようだ。
 かつは一粒種のかくを抱いて二階で寝入っている。
 昼間、町年寄が五人組を引き連れて見廻りにやって来たことが、不吉なことの前触れに思えて五郎兵衛はとても眠るどころではない。ひどくやつれなはったなぁ、と開口一番与一郎に図星を指されたのが、とりわけこたえた。
「おまえ、どない思う。お二人はんに路銀を差し上げてここから出て行ってもらうことにしょったら――そうでもせんことにはとても出て行きそうにあらへんからなぁ」
「そりゃあんたはん、いいこと思いつきなはったわあ」
 綿入れのどてらを羽織って寒そうに手培りを抱えているつねは、目に光明をのぼらせて言った。
「どれくらい差し上げたら納得してくれはるやろか」
「まあ、五十両といったところやろか」
 組んでいた腕をほどき、五郎兵衛は女房の顔をのぞき見た。
「そ、そないに仰山――。わては二十両で宜しいやないかと思うがなぁ」
 金の話となると商人の女房はとたんに目つきが険しくなる。
「とにかく五十両もの大金どないするんや、この店にはあらへんでえ。飢饉つづきのあおりで商いはあがったりや。手拭で頬冠り、ねじり鉢巻きして踊りだ祭りだとはしゃぐ人は今どきおらんからのぉ」
 五郎兵衛は、わしにあてがあるさかいそない心配せえへんでええ、と答え、もう寝ようと腰をあげた。
 夜が明けると三月二十五日だ。夕刻、店の者たちが通い番頭の差配でいっせいに品物の整頓にとりかかったのを見て、五郎兵衛は離れに夕食の包み紙を二つ届けに行った。まだ七ツ半頃(午後五時頃)で、板扉を軽く叩いて合図をすると、内側から突っかえ棒をはずし扉を開いたのは格之助だった。
「これは五郎兵衛殿、今夜の飯は早いですな、忝(かたじけな)い」
と軽口をたたき飯の紙包を大事そうに受け取った格之助が、閉めようとしたその板扉を五郎兵衛の手がおさえた。
「折り入ってお話がございますので入らせてもらいやす」と言うが早いか五郎兵衛は、これは意外なという面持の格之助に構わずに離れに足を踏み入れた。二人を匿う羽目になってから五郎兵衛が離れの座敷に上がるのはこれが初めてだ。
 ひと月もの間、閉め切ったままなので、八帖の部屋は人【火温】(ひといき)れと汗の臭いで噎(む)せ返るようだ。五郎兵衛は自分で行灯の油皿に油をつぎ足して部屋の中を明るくし、火桶の埋み火を掻き出すと炭取りの炭をつぎ足した。中斎も格之助も、ただ五郎兵衛の仕草を怪訝そうに眺めている。
 薄明かりに馴れた両眼の前に不気味な光景がにじみ出た。五郎兵衛は息を呑んだ。座敷の中ほどに取りはずされた襖が捨てられたように積み重ねられ、寝布団の白い綿があちこち引き千切られて散らばっているではないか。はっとして目を上げると、雨戸という雨戸の裂け目や節穴には白い花が一面咲いたように綿が詰め込まれている。
 唖然として、五郎兵衛は言葉を失った。
「美吉屋、密訴に及んだりしたら火薬をばらまいて火を掛けるから心得ておけよっ」
 はぐれ鴉のように二人が逃げ込んで来た夜、大塩が口にした言葉は、脅しではなく本音だったのだと、五郎兵衛は悟った。
 捕り方への備えだと言うのだろうが、他人の家屋敷に匿まってもらったうえに火を放つといった非道が許されるものかのか。
 面を伏せて済まなそうに身体を縮めている格之助を目の端に入れたが、五郎兵衛の心の中に初めて大塩父子への憎悪が芽生えた。
(中斎という人はほんま病い袋や。恩を仇で返すとはこのことやでぇ。露見せんうちに今すぐにでも立ち退かせなあぁかん)
 五郎兵衛は、美濃紙に包んだ切餅を二つ壊中から掴み出すと、大塩父子の目の前に押し出した。大塩が即座に、これは何の真似だっと喚いた。
「おわかりのように切餅二つ、合わせて五十両ここにございます。以前大塩様にお世話になったことのある美吉屋五郎兵衛の心からの餞別でございます。どうぞご遠慮のうお納めくだされ」
 切餅とは、一分銀を百枚揃えて包んだ二十五両分で、ちょうど四角い形になることから俗に切餅と呼ばれている。二つで五十両である。
 そのかわり、と五郎兵衛は声を強めた。
「お受け取りになられましたら、今夜中にここを立ち退いていただきます。でないと、美吉屋は破減するよりほかありません。美吉屋をも一度助けてやろうと、おぼしめしまして、このとおり伏してお願い申しあげます」
 五郎兵衛は、気持悪いほどじめついた畳に額を擦りつけた。そして奉行所の探索の目がすでに市内へと向けられており、美吉屋の離れ座敷も安全な隠れ場所とは言えなくなったと、訴えた。



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