Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.12.19

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「天命を奉じ 天討致し候」 その16

松原 誠

『時代小説大全』(別冊歴史読本 98春号)
新人物往来社 1998.3 より転載


◇禁転載◇

十六

「お父上、もはや一刻の猶予もなりませぬぞ。とにかくこれ以上美吉屋殿のご一家に迷惑をかけることは人の道にはずれるというものです」
 それまで沈黙を守っていた格之助が、中斎の方に向き直ると、思いあまった風に切り出した。屋根瓦を割るばかりの激しい雨音が三人の耳元をつんざいた。遠くの雷が急に近場で鳴りはじめたようだ。
「おおこれは幸い、雨になりましたぞ。身を隠すには絶好の晩になりましょう。お父上」
 格之助の言葉が途切れるのを待っていたように中斎は、吠えた。
「わしはな、ここを動きはせんぞ。逃げ廻るのは性分に合わん。美吉屋、おのれには悪いがな、わしは死に場所をここに決めたのだ」
 手負い獅子を思わせる生きものが一頭、行灯の黄昏色の中でのたうち廻った。
「美吉屋殿、心ならずもかくも長きにわたってご厄介をかけてしまい、まこと申しわけない。お詫びの致しようもないことは重々承知しているが」
 両手をつき顔を上げた格之助の眸が濡れている。
「父を説いて必ずや今夜のうちに退去致すから、そなたはいったん引き上げてくれぬか」
 格之助の言葉をそのまま信じるわけではなかったが、五郎兵衛はだまってうなずくと、膝を立て、離れを出た。
 帳場の結界に戻ると、つねとかつが身体を寄せ合って五郎兵衛を待ち兼ねていた。春も終わりとはいえ、なごりの南のせいかばかに底冷えがする。住み込みの店の者は皆二階だ。 広い店の中には闇が濃くうずくまっている。
「どないでした。あんじょう行きなはりましたかいな」
 女二人が堰を切ったように同時に口を開いた。帳場の行灯の火をはじくお歯黒の照りが薄気味悪く五郎兵衛には思えた。
「どないもこないもあらへんがな。あの親爺さんは、もう人ではないわぁ」
 吐き捨てるように言って坐ると、五郎兵衛はつねが淹(い)れたぬるい茶をごくごくっと音を立てて飲んだ。
「格之助はんはなぁ先生を連れて今夜中に出て行ってくれはる言いよるんやが、親爺さんの方が不貞腐れてしもうてあかんのや」
 五郎兵衛は湯呑みを手にしたまま、
「でも五十両はなぁ今さら引っ込みがつかんので、とりあえずは置いて来よったが」
 とかつに了解を求めるように言った。
 五十両はかつの再婚の相手である男の父親から無理を言って借りたものだ。女二人は、大金を出すと言っても岩のように動かない中斎父子に、もうどうしていいやらわからず、肩を波立たせてすすり泣いた。
「もうよせっ。これでわしの腹が固まった。明日、夜が明けるのを待ってお奉行所に訴え出よう。それより他に美吉屋が助かる道は残っておらん。今になってようわかった」
 ぶるぶるっと身顫いし両手で荒々しく顔面をこすると、五郎兵衡はかつに向かいお奉行所に駆けつけてこう申しあげるのだ、と策をさずけた。
 ――旅の托鉢僧に身をやつしたご手配中の大塩父子が、実は昨夜遅く忍んで参りました。二人は今店の奥にある離れで寝入っております――いいかよく聞けよ、昨夜遅く四ツ下がり(午後十時過ぎ)に来たことにするんやでぇ。
 かつの眸に怯えた色があふれた。
「いいか、ひと月あまりも匿っていたことが知れてみい、美吉屋の財産は御上に没収のうえ、わたしらは皆、打ち首、獄門や」
 五郎兵衛の血走った両眼を見詰め、かつは力強くうなずいた。
 この頃、離れでは父子の言い争いがつづいていた。
「そんなに五十両が欲しければ、おまえこの金を持って何処へでも消え失せるがいい」
 中斎は起き上がると胡坐をかいた。
「わしは、わしらの蜂起が引き金になって下々の者、貧しい民が一斉に立ち上がり、汚吏、姦商に鉄槌を下すものと今日まで望みをつないでおった。だが度を越した疲弊は、民から正義を求める怒りすら奪ってしまうものらしい。どうやらわしの見込み違いだったわ」
 中斎は、養嗣の眼の前で初めてしんみりとした口をきいた。
「だが聞け、わしは跡部ごときに敗れたのではないぞ。孔孟の生涯を見てみい、かのような聖人君主だとて、存命中はその説くところが世にうけ入れられたとは言えず志も得なんだ。ところだが、没後二千数百年の今日、人倫の基として学ばざる人がおらんほどに認められておるではないか」



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