Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.12.25

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「天命を奉じ 天討致し候」 その18

松原 誠

『時代小説大全』(別冊歴史読本 98春号)
新人物往来社 1998.3 より転載


◇禁転載◇

十八

 昨夜来の雨があがったばかりの本町通を、かつは東のお城の方に向かって小走りに駆けた。途中左手に見えた船場の大塩焼けの跡地には、仮普請や粗末な小屋掛けの店があちこちに建っている。夜明けを迎えたばかりで船場も人の動きは閑散としていた。
 武者窓の連なった表長屋に沿って西町奉行所の門前にたどり着くと、かつは門番小屋の扉を叩いて与力の内山様にお目にかからせてほしいと願い出た。まだ眠り足りなさそうな門番から、内山様なら東だよと聞かされ、さほど離れていない東町奉行所に廻った。
 朝日を照り返して屋根瓦が輝いて見える奉行所あたりは、早朝の静寂を掻き乱す騒然とした空気が支配していた。日焼けした顔を緊張で引きつらせた大勢の役人たちが、さかんに出入りを繰り返している。不安が急にかつの胸に重くのしかかって来たが、息を溜めて門番の仲間に名乗り出た。
「油掛町から参りました美吉屋の娘ですが、内山与力様に是非とも――」
 かつが言い終えるよりも早く、
「なにっ油掛町の美吉屋だとっ」
 通りかかった役人のひとりが大声で聞き返したとたん、あたりにいた役人たちがかつをめがけて飛びかかった。恐怖のあまり、かつはその場で気を失い昏倒した。
 美吉屋五郎兵衛の密訴は半日だけ遅れた。半日の差が美吉屋の運命を暗転させることになった。
 大坂の南に平野郷という村があり、大坂城代の陣屋がおかれている。例年三月五日と定められている奉公人の出替わりでこの平野郷に掃って来た美吉屋の下女きぬの他愛のない世間話が事件の発端だった。
 きぬがした話とはこうである。
 ――油掛町の美吉屋では、米が高値だというのに三月に入ってから何故か毎朝飯を炊くようになった。それまではほかの商家と同じように、朝飯は前の晩の残り飯を粥にして主人家族も奉公人も食べていたのにおかしいと思った。気をつけて見ていると飯を二つの紙包みに取り分けて主人夫婦がどこへか持って行く。神仏へのお供えだろうと思っていたが、それにしては一度も御下がりがなく、狐狸にでもあげてしまうのか、やっぱりおかしい。
 さては飢鐘で腹を空かした狐や狸が町中にも現われ出るようになったかと、話に尾鰭(おひれ)がついて陣屋の役人の耳にまで入った。陣屋では下情の噂話の一つとして大坂城代に内報したところ、美吉屋といえば大塩との縁で町預けになっている商人の店だと気づいて念のため調べてみるよう町奉行所に命じた。
 それが昨夜のことだった。東町奉行所は一気に緊迫した雰囲気につつまれ、夜明け前から与力や同心たちの出入りが激しくなったのだ。
「なにっ、反賊の父子が逃げ込んで来たのは、昨夜のことだとな。よくも白々しくそのような嘘を申しよって――」
 内山は、それが特徴である庇(ひさし)のように飛び出した額を脂で光らせてかつを威しあげた。
 かつは後ろ手にしばられ腰縄を打たれた姿で吟味をうけているうちに、きぬのお喋りからことが露見したことを知って観念した。
「でもお役人様っ、美吉屋は反賊の一味でも何でもあらへんのや。あの二人、匿ってくれなければ、火を掛けると言って脅しよったんやでぇ」
かつがいくら喚き立てても、あばた面の頬を引きつらせた内山の顔からは、冷笑が消えなかった。
 かつの帰りが遅いのを心配していた美吉屋には、この頃探索方が踏み込んで夫婦とも引っ立てていった。
 離れ座敷を中心とした美吉屋全体の見取り図が、五郎兵衛らの自供にもとづいて作られた。美吉屋の夫婦と娘は奉行所内の仮牢に押し込められた。



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