Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.13

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「天命を奉じ 天討致し候」 その3

松原 誠

『時代小説大全』(別冊歴史読本 98春号)
新人物往来社 1998.3 より転載


◇禁転載◇

「あて、どないもこないも納得出来へん」
 離れの大塩父子に夕飯の包みを届けて帳場に戻って来たかつが唇を尖らせて父親に歯を剥(む)いた。
「先生父子はんと何ぞあったんかいな、かつ」
 かつの物言いの棘々(とげとげ)しさに小机の上についていた肘を慌てて引いた五郎兵衛は、憂鬱そうな顔をかつに向けた。手燭を 持ったまま突っ立っているかつの左手が腹立ちのあまり小刻みに顫(ふる)えている。
「髭もじゃのおっさんの方がな、今夜は飯だけなのか、潰け物も欲しかったんだが――だと。ひとがどない苦労しよるか知らんで、ほんまにあほんだらや。あんたはん何様と思うてそない世迷い言を言うんかいな、と毒性言うてやりたかったわぁ」
「これ、かつ。大塩先生の悪口はいいかげんにせんかい」
「なんでや、お父っつあん。大塩先生と言えば世間に知られたどえらい学者やろ。そないえらいお人が何故町中を焼いた上にこそこそ逃げ隠れしよるんや。こっちこそ泣きとうなる――」
 五郎兵衛が、これっ、と言って立てた人差し指を口にあてるよりも早く、かつの大きな眸に涙の粒が盛り上がった。
 美吉屋にとってひとり娘のかつは、せっかくの入り婿に先立たれ、近々船場の同業者から三男坊を新たに婿に迎え入れる手筈になっている。亡夫との間に生まれたかくという名の女児を抱えたかつは、年取った両親にかわって美吉屋を背負って立つ気構えでいる。それだけに、大塩父子の闖入(ちんにゅう)には父母を上まわる怨みをつのらせている。
「お父っつぁんは――雷に出遭ったようなもんや言いやるけんど――」
 深く吸った息をいったん止め、かつは父親に詰め寄って言った。
「あの先生らをいつまで匿もうたら気が済むやねん。この前聞かしてもろた先生へのご恩返しとやらは、それはそれで済みよるんと違いますややろか」
 かつは五郎兵衛の憔悴した表情を穴のあくほど見つめている。
 二階で臥せっていたつねが、
「こない遅うまで何しよるんや。行灯の油がもったいないがな」
 と、ぶつぶつ言いながら階段を降りて来た。つねは傍目(はため)にもやつれが目立ち、近頃は夕飯を済ますと、すぐに二階の寝部屋に上がってしまうのだった。
 美吉屋が、天満与力屋敷の大塩家に出入りしていたことは、奉行所にも知れていて、大塩一党の探索がはじまるとすぐに油掛町の町会所預けにした。町会所預けとは、町の自治組織である町年寄ら町役人の監視下におくことである。実際町年寄をはじめその代人である町代や五人組の者たちが日に二、三回は入れ替わり立ち替わり見廻りにやって来る。
「何ぞ変わりはおまへんやろな」
「へえおおきに」
 と言った変哲のない問答の繰り返しではあるが、五郎兵衛にとってはそのつどお白洲に引き出されたような罪悪感を味わう。
 かつに詰め寄られた五郎兵衛は、つねが寝巻姿で姿を見せたのをしおに、大塩家との浅からぬ因縁をまた繰り返した。帳場用の小振りの行灯を手元に引き寄せると、五郎兵衛は、もそっと近く寄れと二人を手招きした。三つの影が行灯をとり囲み、帳場の周りはいちだんと濃い闇がたちこめた。
 二階に目を遣り耳を澄ませても、コトリとも音がしない。五郎兵衛はやっと話し出した。



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