Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.16

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「天命を奉じ 天討致し候」 その4

松原 誠

『時代小説大全』(別冊歴史読本 98春号)
新人物往来社 1998.3 より転載


◇禁転載◇

 話は十四年前の文政六年(一八二三)にさかのぼる。その当時奉行所から設立が認められていた綿問屋の株仲間商人が大坂近郊の百姓たちから実綿や繰り綿を大量に安く買いたたいては加工業者には高値で売り渡して暴利をむさぼっていた。この株仲間は三所綿問屋と呼ばれ、仲間の商人はたったの九軒であったから一軒あたりの利も大きかった。
 手拭い地卸しの美吉屋はこの加工業者の世話役の一人だった。加工業者たちは、百姓たちと手を組み、株仲間による独占的な買い占めを止めさせるよう町奉行に訴え出た。
義債にかられ、この訴訟を積極的に取り上げたのが、東町奉行所の下で目安役兼吟味役与力の地位にあった大塩平八郎だった。係り与力の大塩が奉行の高井山城守実徳の名前で下した裁決は、実綿、繰り綿の取引きを自由とする画期的なものであった。これによって加工業者は綿作りをしている百姓とじかに取引きが出来るようになったのである。
 与力の大塩に深く恩義を感じた五郎兵衛は、この後、天満の大塩邸に出入りするようになった。実は訴訟に勝った直後五郎兵衛は同業の商人と語らって、相当の金子を包み、大塩に差し出したことがあった。すると、
「無礼者っ、心得違いを致すな」
 大塩はこう怒鳴って投げ返したのである。
「わしは御上に正義のあるところをしめさんがために目安(訴訟のこと)を取り上げたのであって、私利私欲からではない」
 五郎兵衛らに向かって大塩は怒りをあらわにし、席を蹴って書斎を出た。
(今どきのお役人様の中にもこのような廉直なお方がおられたのか)
 五郎兵衛らは、地獄で仏に会うとはこのようなことかと、生まれてはじめてと言っていい感動の波に洗われた。一同はしぱらく頭を上げることが出来なかった。他に何とか感謝の気持を伝える手立てはないものかと考えた五郎兵衛は、時折大塩邸の勝手口を訪ね、密かに米や新鮮な魚を届けるようになった。
 この頃大塩の屋敷には、中斎の盛名を慕って来た若い門人が寄宿していなかったことはなく、勝手のやりくりに頭を痛めていた大塩の妻ゆうを喜ばせたのだった。
 自分がして来たことを悔いる気持は、今も五郎兵衛にない。むしろ湧き出る山の清水で喉を潤したような爽やかな思い出にさえなっている。
 大坂の町奉行所は、諸国から米をはじめとしてあらゆる物産が集散するいわゆる天下の台所をよいことに、特権的な富商や株仲間などと切っても切れないしがらみにのめり込んでいた。
 腐敗した土壌に季節はずれの徒花が咲き乱れるように、接待や賄賂の横行は日常茶飯であるばかりか、金品のたかり、ねだりまでなかば公然となっていた。
 役人であることの誇りをみずから蝕んでいた連中の中にあって、大塩与力の存在に陰ながら掌を合わせる庶人が少なくなかったのは当然であった。五郎兵衛もその一人だったが、大塩の正義感が、ただときに抑えを失い、癇癖(かんぺき)となって噴き出すのを見落していた。
「話は長くなってしまったが、大塩様との因縁はこうだったのだよ。まあ一言で言えば、美吉屋の今日あるのは先生の勇気あるご裁断のお蔭なのだ。このことを忘れるならば罰が当たるというものだ」
 言い終えて汗ばんだ顔を掌で撫で下ろした五郎兵衛は、煙草を煙管(きせる)に詰めると火桶の中に首を突っ込んで火をつけた。青紫色の薄煙が身動きせずに聞き入っていたつねとかつの顔の前を音もなく流れた。
 居住まいをただすと、やおらかつが尖んがった口を開いた。
「お父っつあんの話を聞いて、わて、なおのこと納得でけんようになったわぁ。そうでっしやろが」
 五郎兵衛は怯えた目で娘を見返した。
「下々の味方をしなはるそないなお偉いお方が、なんでわてらのような小商人にいつまでもしんどい目さすんや――えげつないんと違うか」
 かつの言い種は筋が通っていると、五郎兵衛もうなずいたが、大塩父子がどうして立ち去らずにいつまでもぐずぐずしているのか、五郎兵衛も正直言って測りかねていた。
「先生方のことやからなあ、きっと何ぞお考えがあるんやろ。もうちょびっとの辛抱やと思うんだがの」
「お父っつあんはなぁ、いつもそない言うて自分を騙かしよるんや。もしお役人に知れたら、わたいらどないなるんや。美吉屋は終いやでぇ」
 かつに煽られてつねも身を乗り出し、
「なあ、あんたはん、しっかりしてえなぁ」
と言って五郎兵衛を睨んだ。かつが火箸を両手に握りしめているのを亭主は目の端に入れた。



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