Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.20

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「天命を奉じ 天討致し候」 その5

松原 誠

『時代小説大全』(別冊歴史読本 98春号)
新人物往来社 1998.3 より転載


◇禁転載◇

「格之助、毎日こうしておっても退屈でならぬ。五郎兵衛に申してどこぞから「伝習録」を借りて来てもらえんだろうかな。まだ読み残しがあったような気がしてならんのだ」
 いつものように、ごろ寝の格好の中斎だ。
 美吉屋の離れには三棟ある土蔵との間に庭を持っているが、万一にそなえて雨戸は全部締め切っているので一日中暗い。腹の空きぐあいからして七ツ半(午後五時)頃かなと、格之助が何とはなしに考えていたときだった。
 「伝習録」とは明の学者政治家の王陽明の教えをその門人らがまとめたもので、中斎の思想の根幹はこれによっている。だが洗心洞にあった「伝習録」は、挙兵のために資金が必要になり、浩瀚な蔵書とともに金に換えてしまっていた。換金処分したのは二月はじめのことで、市中の数軒の書肆がまとめて引き取った金額は、あわせて六百六十八両あまりに達し た。
 大塩はこの金をすべて施行(ほどこし)にあて、大坂近郊の貧窮した小前百姓一万軒に一朱ずつ配ったのである。一両は十六朱であり、貧しい家にとってはさしあたりいくばくかの恵みにはなった。施行にあたっては、天満のあたりに火の手があがるのを見たらば鋤や鍬などを手にして洗心洞に駆けつけて来るよう触れて歩いた。もっとも実際に金を配って廻ったのは、河内屋という本屋の店者たちであったので、大塩の本意がどのように伝わったのか、はうきりしない憾(うら)みは残った。
「わたくしどもは、時に利あちずして敗れたのです。この期に及んで外(と)つ国の書物を読んだところでどうにもなるもので はありますまい」
 虚を突かれたように怯(ひる)んだ表情が中斎の上に浮かび、濁った眼が養嗣の顔に絡みついた。格之助はそれを吹きはらうように追い打ちをかけた。
「蔵書までも売り払って施行にあてようとしたときに、学者の生命にもひとしい書籍を処分するのだけはお止め下さいと、強く申しあげたはずです。漢籍の中には、長崎でやっと手に入れさせた貴重なものも数多くありました。ああした書物は、わたくしどもの末がどうなりましょうとも、後世の好学の士に伝えて行く務めがあったのと違いますか」
「何をほざくかっ、師たるわしに向かって」
 中斎は、起き上がって眼を剥いた。
「書物というものは、それを読む者によって価値が変わるのだ。どのような好学の士が後世出て来ようとも、わしの本は、わしの頭で読みこなし、腹の中に収めたからこそ値打ちがあったのだ」
 中斎はふと、思い出すような表情を作った。
「おまえも知っておろうが、奉行所を致仕して四年目のあれは天保四年のことだった。わしが誠心込めて著した『洗心洞箚記』二巻を江戸の佐藤一斎に進呈し、高評を懇うたことがあった。一斎という男は幕府儒官の林家塾長をつとめながら世間では陽朱陰王と言われておった。わしも奴めを陽明学の同志と信じておったので、後学としての礼をつくしたのだ」
 中斎は思い出すことさえいまいましいという悔恨の念を露骨に浮かべながらつづけた。
「ところが奴めは、王陽明の『心太虚に帰す』についてわしの理解を浅学の言だとばかりに冷笑しおった。ああした俗儒、腐儒が大手を振って大学者ぶっておられるのが、いかにこの世が虚妄に満ちておるかの証しだ。論語読みの論語知らずとは、昔の人はよく言ったものだ」
 だから折角の蔵書を換金したとて惜しいとは思わないと言いたい中斎の気持は、格之助にも伝わって来る。だが格之助の目には江戸の著名な儒者に対する狷介な養父の強がりに映った。要路にあった学者からは、期待に反して相手にはされずに依怙地になり、孤峰を研ぎ澄ますほかになかったのではないかと。
 そんな折りに降りかかって来たのが天保の飢饉だった。知行合一、天地万物一体の仁を埋念とする中斎が、「救民」の天命をわが耳で聴いたと信じたのはやむを得なかったのだろう。
 ――養父は傷ましいお方なのだ。もし打ちつづく飢饉が起きず、東町奉行所に跡部山城守が赴任して来なかったならば。そしてわれを知る者は、山陽に如くはなし上まで信頼していた頼山陽先生が今生きておられたならば、挙兵に駆り立てられることもなかっただろうに。
 頼山陽は、同じ大坂出身で儒者、史論家としてその頃すでに諸国に知られていた。中斎とも面識のあった山陽は、激発しやすい質の大塩に対し、常日頃から自重を求めていたことを格之助は養父から直に間いていた。



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