Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.23

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「天命を奉じ 天討致し候」 その6

松原 誠

『時代小説大全』(別冊歴史読本 98春号)
新人物往来社 1998.3 より転載


◇禁転載◇

中斎の運命を変えたのは、上司であった高井山城守実徳が病いと高齢のため東町奉行を致仕したことが大きかったと、格之助にはわかっていた。高井が辞職する意中を大塩に洩らしたのは天保元年、今から七年前のことと言われているが、その高井は十一年にわたる在任中、大塩に全幅の信をおき存分に腕を振るわせた。大塩が後々まで誇らしげに人に語った難事件の解決は、すべて高井奉行の下でなしとげたものであつた。
 高井の後ろ楯あってこその自分、と日頃承知をしていた大塩は、まだ三十八だというのに隠居した。高井が致仕するより五ケ月も早いその年の七月だった。そして高井の好意によって養嗣の格之助が無事に与力職を襲うことが出来た。お蔭で天満組屋敷の五百坪の屋敷にもそのまま居住することが許された。
 隠居した大塩は、屋敷内にすでに二十六の年で開いていた私塾の洗心洞の経営に専念することになり、門弟を相手に主として陽明学の講学に生きがいを見出した。
 陽明学は儒教の一派であったが、認識はおのずから実践をうながし、実践することで認識は完成するという知行合一の考えを特徴としている。実践はあくまでも知的修練を積み重ねた後で行うべきだとする知先行後の朱子学とは対立する関係にあった。治者たる武士階級の教養としては、朱子学が官学として認められており、陽明学は異端の説とみなされていた。
 中斎の学問の独自性は、宇宙の万物は一体であるべきだとする天地万物一体の仁を強く打ち出すところにあった。この考えをおしすすめ、為政者たるものは、ただたんに有徳であるばかりでなく、万物に仁政を施すのがつとめであるとした。
 町奉行所の与力、同心、東西あわせて百六十人の中にあって、この理想を日々実現しようと燃える大塩は、いきおい同輩からは、変わり者とか、はては狂者とすら蔭口されて孤立していた。
 とは言っても、大塩の廉直さに密かに心を奇せる者がいなかったわけでは決してない。その多くは、同じ役人といっても与力にくらべると身分のずっと低い同心やその子弟であった。また身分は百姓だが、村役人として治政の末端で雑事を押しつけられ、庶人との板挟みに苦しむことの多い近郊農村の庄屋や豪農層の中に支持者が多かった。
 大塩が隠居すると、洗心洞への入塾を懇う者の数は以前にもまして増えた。
 洗心洞でともに机を並べ、大塩の警咳に接するうちに下級武士と村役人をつとめる豪農たちとの交流が濃くなって行く。自然のなりゆきとして、双方の間に姻戚関係が生まれ、洗心洞は大塩を盟主にいただく結社の色合いを深めて行ったのである。
 私塾として洗心洞が形を整えはじめてから挙兵に至るまでの十数年の間で、門弟として名を連ねた者の数は、公儀の調べではのべで五十七人と予想外に少なかったのも、塾としてのこのような独自性にあったと言える。
 時代は、寛政の改革が挫折に終わり、その後十一代将軍家斉の親政に入ると、幕政は財政の窮乏をよそに、文化文政期の華美驕奢に流れて行った。〃下は上に倣(なら)う〃のとおり、たがが緩んだ諸役人の弛(たる)みには武士としての恥じらいというものがなくなった。庶人の難儀はそれだけ増した。
 そこへ降って湧いたのが、天保の大飢饉と後の世までも呼ばれる天保四年(一八三三)から七年(一八三六)にわたる四年に及ぶ全国的な凶作だ。



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