Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.27

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「天命を奉じ 天討致し候」 その7

松原 誠

『時代小説大全』(別冊歴史読本 98春号)
新人物往来社 1998.3 より転載


◇禁転載◇

 知行合一の理想を日頃門弟に説いていた大塩には、町奉行所の救民対策は名ばかりで迅速を欠き、後手々々にまわるのを見てはいられない心境だった。大塩は、日夜もどかしい思いに苦しんだ。
「米を買い占めたり、大坂以外の土地に売ったりするな、米屋は米の小売り値を引き下げろだと――当今の御奉行所は小手先ばかりのお触れ屋に過ぎん」
 すでに号を中斎とあらためていた大塩は、ある日、格之助をはじめ門弟の内の与力、同心たち十数名を書斎に詰め込んで激しい叱責を浴びせた。
「米価を吊り上げているのは堂島の米相場を動かしている蔵元や掛屋の連中だとわかっていながら、そちらの方は見逃している」
 無為無策とはこういうことを指して言うのだ、と中斎は語気を荒げた。
「水を笊(ざる)ですくい取るような生温(ぬる)いやり方で、今日明日口に入れる米にも困っておる窮民を救うことが出来るのか、おまえたちは洗心洞で日頃何を学んで来たのか」
 そのとき、師は、石を噛み砕いたかと思わせるような凄まじい歯軋りの声を立て、はじかれたように皆頭を垂れたのを、格之助は昨日のことのように思いえがくことが出来る。
 天保四年は諸国とも天候不順に悩まされ、米の出来高は奥羽などひどい地方だと平年の三分作、ましなところでも七分作にとどまった。米の不作は、翌年、翌々年とつづき、四年目の天保七年の作柄も諸国を平均すると平年の四割あまりにしかならなかった。これに人為灼な要因も重なって、米価の高騰はとどまることを知らなかった。
 極端な米依存だったこの時代は、幕府、諸藩とも、農村から徴収した年貢米は、自家消責の分を除き、江戸や大坂で米商人をつうじて換金していた。そこへ商品である米の入荷量が減ったりすれば、米価は思惑が思惑をよんで投機を招く。御上がよほど臨機応変の処置をとらないかぎり、米価の暴騰にはずみがつくのは埋の当然だった。
 凶作に便乗して、米価は実際にどのくらい値上がりしたのだろうか。全国の米相場の指標になっていた大坂堂島の米会所の記録がはっきりと示している。記録のうち、肥後米一石当たりの値段を、毎年二月一日現在で追ってみる。価は銀表示である。
 天保四年は、七十匁七分だったものが、翌年は一挙に百十六匁五分にはね上がった。天保六年は、過去二年の反動からかやや落ち着いたものの、翌七年は八十二匁七分と、ふたたび騰勢に転じた。洗心洞の一党が挙兵蜂起の準備を密かに進めていた天保八年二月には、百五十四匁八分と、四年前の二倍強に達した。公定相場で金に換算すれば、一石が二両ニ分を超える。
 玄米で一石といえば、一人一日最低三合は必要だとすると十一ケ月分にしかならない。五人家族が買米をしていては、暮して行けるわけはなかった。
 人々の祈りも虚しく、悪疫のように飢餓が諸国に蔓延した。幕府、諸藩はそれぞれ備荒米(びこうまい)を取りくずして窮民に賑給したり、お救い小屋を建てて貧民を収容したり、一応の努力をはらってはいた。酒造りは各地とも大幅に制限された。それでも餓死者や行き倒れが増えるのを防ぐことは出来ず、捨て子はいたるところで見られた。地方によっては、草 や木の皮を食べつくした後、犬や猫まで殺して食するまでに追い詰められた。この大飢饉で餓死した人の数は、二十万から三十万にも達しただろうとは、後世の見方である。
 こうした中でとりわけ大坂では、市民のうちのかなりの部分を占めているその日暮らしの貧困層と近郊農村の土地を持たない小前百姓とが、飢饉による打撃を二重にうけていた。何故かと言えば、諸藩や幕府の天領から、換金のために大坂に廻送して来る米の量そのものが減ったのである。これは諸藩の場合、飢饉対策のために津留(つど)めと言って年貢米を売らずに自領内に留めたり、特定の米商人にだけ直売したりするようになったからであった。
 入荷量が激減したことは、米価の高騰に直接結びついた。
 天保八年になると大坂市中の惨状は、目にあまる様相を見せて来た。
 ひっそりと静まり返った貧家をのぞいて見ると、そこに人間の干物同士が抱きあったまま飢え死にしていた。空腹に堪えきれず、通る人にみさかいなく物乞いしているうちに息を引きとるお年寄りも、あたりまえの光景になった。
 餓死する者は、毎日市中で七、八十人にも達しているのではないかという噂も流れた。大坂城の濠や市中を縦横に流れている堀川は、身投げする人々の墓場に変わったと言われたのもこの頃のことだ。



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