『時代小説大全』(別冊歴史読本 98春号)
新人物往来社 1998.3 より転載
「御免やす、美吉屋はん。何ぞその後変わったことおまへんか――」
暖簾を割って店に入って来たのは、油掛町の町年寄をしている与一郎だった。店の前の道は打ち水が乾き、とぼけたような春の光にあばた面を晒している。午の刻(正午)にはまだ半刻(一時間)ほどあり、ちょうど客足が途切れたときだ。
店先で小僧たちにあれこれと指図していた五郎兵衛が、
「おいでやす―」
と反射的に口から出かかった挨拶の言葉を、慌てて呑み込んだ。暖簾の外から店の中をのぞいているのが与一郎ばかりではないと、見てとったからだ。六右衛門や次助らの五人組が打ち揃ってのお出ましだった。
大塩先生たちが逃げ込んで来なはったのは、先月の今日二十四日のことだったなと、五郎兵衛は不吉な暗合を感じとった。頬のあたりが緊張でゆがんだ。
「これはこれは、町年寄はじめお歴々の方々までお揃いで、ごくろうはんだす。お蔭様であんじょう行っておりやす」
さりげなく答えを返したつもりだったが、いきなり与一郎が五郎兵衛の顔をしげしげと見廻して言った。
「おや美吉屋はん。いっときにお痩せになりましたなぁなんでぇな。あんたはん、こりわたしより一つ下やろ。身体には気イつけなああきまへんでえ」
「へえおおきに、わたしはどうも春の時季いうが苦手なもんで」
何かお咎めの筋があっての見廻りではなさそうだと、与一郎ののっぺりとした顔面から見て取った五郎兵衛は身体中から力が抜けた。その与一郎は、内儀が顔を出さず、小僧が茶を運んで来たのでちょっと怪訝な色をのぼせた。が、上がり框が腰掛け替わりになると、町人どうしの気易い世問話がはじまった。五人組の一人が、この茶の淹(い)れぐあいがええやな
いか、と言って小僧を褒めた。
「美吉屋はん、あんたはんもどえらい騒ぎの巻き添えを食うて辛いでっしゃろな」
「ええほんまだす」
町年寄の言葉に、それどころやおまへん、と五郎兵衛は思わず胸がそっくり飛び出しそうになった。こらえるのが辛かつた。
空になった湯呑みを框のへりに置いたとたん、与一郎の舌のまわりが滑らかになった。
「大塩はんという人、あんたはんどう思いなさっておるんや。偉い学者はんやそうやが、いくら下々を救うてくださると言いなはったって、こないな大火事をひき起こしてしもうて。ほんまにかなわんお人やでえ。ありがた迷惑というんはこんなんこと言うのと違いますやろか」
そうですやろ、美吉屋はん、と同意を求められれば五郎兵衛としてはうなずかないわけには行かない。町年寄をしている与一郎は、実は船場に持っていた家作が、今では大塩焼けと呼ばれている挙兵騒ぎの火事で三棟とも焼け落ちてしまい、かなりの痛手をうけていた。このことは五郎兵衛も町内の噂で聞いていたので、与一郎の言い分にうなずくだけの同情心は十分に持ち合わせていたのだ。
挙兵の当日、淀川の北の天満与力屋敷から市の中心街へと打って出た大塩一党は、はじめは七十五人であったという。そのうち門弟の数は三十六人、それに守口など近郊の農村から馳せ参じた百姓が三十人を超えていた。そのほかの者は、大工、猟師それに板摺り職人らであった。これらの者たちは、乱暴の一味に加えられるとは夢にも思わないで、数日前、中には前の日から洗心洞に泊まり込み、挙兵の準備の片棒を担ぐ羽目になったのである。
大工は大筒をのせる台車作りを手伝い、また猟師は焙烙(ほうろく)玉や棒火矢(ぼうびや)をこしらえるための火薬の使い方を門人たちに教える役だった。これらのうち幾人かは、企てに感づいたものの大塩の監視の厳しさに逃げ出すことが出来なかったのだ。しかし多くの者は、米よこせの百姓一揆を防ぐための準備だという大塩の巧みな言を信じて疑わなかった。何しろ大塩様は隠居した身だとは言え、庶人の上に君臨した元与力だったのだからそれも無理からぬところだった。
天満組屋敷の中にある自邸に火を放って気勢をあげた大塩率いる一党は、天満の一帯に多い与力同心の組屋敷を焼き払いながら淀川にかかる難波橋を渡って船場に入った。この頃になると、町の貧民たちや、火事に気づいて近郊から駆けつけて来た百姓らがつぎつぎと加わり、総勢はざっと三百人にも膨らんだ。
だが一部で暴徒と化した民衆は、商家の店や富商の蔵などの中から金品を手当たりしだいに盗み出すと、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
奉行所側は、はじめのうちは守勢に立っていたが、この日の早朝洗心洞の門弟の中から裏切り者が二人出て挙兵を知らせて来たので立ち直るのは早かった。大坂定番の応援も功を秦し、乱そのものは八ツ(午後四時)頃には鎮圧された。
しかし火の勢いはその後もおさまる気配はなく、大坂三郷と言われている市中の約五分の一を焼いて、翌日の夜になってやっと鎮火した。誰言うとなく、この大火事に大塩焼けという名がついた。
与一郎の話を聞いていた五人組の一人の六右衛門が、わしにも言わせてくれと言わんばかりに、身を乗り出した。
「学者はんというんは、偉いお人ほど身勝ちなもんやそうやけどなあ。大塩という人ほどえげつなくてけったいな奴っちゃは、おらんと違うか。まあよう言うて、やまいぶくろやなあ」
六右衛門がこう言うと、与一郎が、
「そうや六さん、うまいこと言いよる。大塩という人、今頃何処をどう逃げ廻っておるんか知らんがな、悴を連れて道行きとは、男らしくないわい。勝負に負けたんやから潔ぐ出て来よったらいいんや」
町年寄の与一郎が、わたしらお蔭で毎日落ち着かんでかなわん、と締めくくると周りにいた五人組の連中は、そやそやと言わんばかりにしきりとうなずいた。
六右衛門が言ったやまいぶくろとは、文字どおり病いを包んだ袋、つまり本人にもわかりかねるほどいろいろな病いの源を抱えた人物を指す。大坂独特の言いまわしのひとつだ。
五郎兵衛は空になった湯呑みに目を落としたまま、なるほど大塩先生はやまいぶくろかも知れんな、と喉の奥で呻いた。