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大塩の職に在りしは僅々の歳月にして、天保元年に老を告げ仕を致す、
時に三十七歳なり、而して在職中、妖巫豊田貢(今の蓮門天理諸教と髣
髴たり)を刑し、猾吏弓削某の奸をし、僧侶の淫虐を懲す等、吏績挙
げて数へ難し、其職卑しと雖ども、吏民の之を畏敬すること神の如く
なりしは、柴舟の如き一窮措大の夢想せざる所なり、当時頼山陽は一
代の文豪にして、名声藉甚、海内の士人、一たび其謦咳に接するを栄と
す、大塩、山陽より少きこと十数歳(大塩三十九歳の秋山陽易簀す)の
後進にして、忘年の交を結び、十余年間相往来して、道を謂じ、文を論
ずるを見れば、彼の人品、学問の非凡なること推知すべし、暴挙を以て
身を亡ぼせしは、四十四歳の三月なり、其齢、未だ老たりと云ふにあら
ず、若し彼をして恬退書を読み、天寿を以て終らしめば、学業の造
詣、著述の豊富測るべからず、中江藤樹、三輪執斎、熊沢蕃山等に
継で本邦王学の碩儒として、流風遺沢、千百年の後に至るも尽きざ
るべし、柴舟が一生、寒乞佗に終りしに比すれば、其優劣、天壌
も啻ならざりしならん、事此に出でず、窮民の凍餓、富豪の驕奢と、
有司の暴横不仁を視て、一片の侠心に駆られ、身亡び名汚れ、九族夷滅
せられ、将に清輝を揚げんとせし王学も、併せて影を西山に収めしは、
惜みても猶惜むべし、思ふて此に至れば、柴舟の轗軻不遇、却て悲む
に足らざるなり、弟子の随従、名声の伝播、王漁洋、袁子才等の如く盛
ならざるも、身後の毀りを受くる亦両家の如くならず、林下に箕踞して、
白眼、世上を睥睨し、簡傲身を終る、亦文士、得意の最たるものなり、
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易簀
(えきさく)
学徳の高い
人の死
恬退
(てんたい)
轗軻(かんか)
世間に認めら
れないこと
箕踞(ききょ)
両足をなげ出
してすわること
睥睨
(へきげい)
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