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柴舟曰く、
予嘗言、後世道学、惟王陽明先生独得 其伝 、蓋以 其所 講之学与
聖門 無 有 糸毫或異者 也、云々
自 北宋 以来、以 道学 而建 莫大之功 者、先生一人而已、格物尚有
大 於是 耶、至 専主 格物 者 、莫 過 晦菴 、然考 晦庵生平 除 却
論 註幾本経書 而外、毫無 功業可 論 見、則亦何説也、云々
大塩の晦庵を論ずる、此の如く痛快骨を刺すにあらずと雖も、婉曲の中
冷語あり、是れ亦又俗儒の指摘と、幕府の嫌忌を避けんがためなり、
而して陽明を以て道学の正を得たるものとなすに至りて、柴舟と異なる
所なし、其言に曰く、
道之要、前 乎陽明先生 、未 明 於天下 、而経 於陽明先生 、始明
乎天下 矣、云々
陽明先生、致 良知 、為 聖学真脈 、云々
或問、朱氏其学徳才能、与 聖人 既相近矣耶、吾不肖、何敢足 知 之、
然以 昔賢私 淑朱子 、人之説 判 之、黄陶庵曰、『朱子四書集註中、
未 嘗無 病、……略……大抵任 天下事 、識以主 之、肝以輔 之、
強力以済 之、欠 一不可也、我朝方正学 、是何等骨力、何等学術、
真聖人之徒也、惜応 変之才、是其所 少、使 其処 平世 遇 中材以上
之君 、定有 可 観、建文時如何済 事、因思程正叔、朱元晦、処 建
文時 不 遇 如 方正学 耳、』其謂 惜 方正学応 変之才是其所 少、
而又以為 朱子処 建文時 不 遇 如 方正学 耳、則其才能之素、又坐
可 推矣、
朱氏を論ずる処、如何に婉曲なるかを見よ、先づ朱学の徒の言語を捉ら
へて説破せず、語々含糊、筆々模陵、之を筆する時に於て、三たび意を
致すの状想ふべし、
其他、廖氏の文と大塩の剳記を併観するときは、両々相似たるもの甚多
し、是学問の根柢、彼此相同じきを以てなり、而して柴舟の心を察す
るに、その悲むべく憐むべきもの、大塩に勝れり、少うして功名に志
すと雖も、乱離に遭遇して、備に艱苦を嘗め、牢騒の鬱抑洩すに由無く、
時と乖き、俗と違ひ、畢生学ぶ所ろ、一たびも世に試むる能はず、轗軻
窮愁草野に呻吟し、生前纔かに文酒を借りて、不平を洩す、形骸生ける
も猶死するが如し、之を大塩の一たび吏職に就き、高井城州、矢部駿州
の如き、循吏の知遇を蒙りしに比すれば、其幸不幸何如ぞや、
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『洗心洞箚記』
その134
『洗心洞箚記』
その293
『洗心洞箚記』
その148
乖(そむ)き
轗軻
(かんか)
世間に認めら
れないこと
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