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おんこえ
神功皇后は御声高く、二人とも控へよ、さて/\平八郎は聞しに勝る癇
癖の強き男よな、東湖随筆にも矢部駿河守の話を引いて、平八郎は肝癪
あぶ
持の甚しきものなりと記しありしが、実に其の通り、炙り物の金頭を、
ついで かしら
談話の序に、頭より尾まで、ポリ/\と咬み砕いて、喰ひし由、さもあ
みだ
りなん、憂国の至情はさる事ながら、漫りに悲憤慷慨して、殆んど狂人
もとい
の態度となるは、大事を誤まるの基なり、文武兼備の英傑とは云へ、こ
しょう/\ うつは かいしよく
れあるがため将相の器にあらず、聞けば汝が師弟を戒飭したる洗心洞盟
約書にも、公罪を犯せば、則ち族親と雖も、掩護すること能はず、之を
なんじら のこ
官に告げて以て其処置に任す、願はくは 們小心翼々、父母の憂を貽す
したが
ことなかれと云ふ個條ありし由、国家の秩序を重んじ、官府の法令に遵
ふべき公義の心ありながら、区々たる俗吏を憎むの余り、暴を以て暴に
代へ、甘んじて乱臣賊子に伍するは何事ぞ、而も汝は知行合一を以て、
唯一の精神とする陽明学を奉ずるものならずや、其の学んで知るところ
たいへき
を以て、子弟を律しながら、己れ自ら犯して、身を大辟に陥るは、癇癪
たいきよ
と云ふ一つの病あればなり、汝が大 説の口吻を借りて云へば、方寸の
即ち大 の なり、たゞ其中に癇癪あれば、実にして ならずとも云
つぐ うづま やゝ
ふべしと、説き示し給へば、大塩も口を噤んで蹲りぬ、良あつて皇后の
み けしき
御気色を窺ひ、御教誨の條々、一々肺肝に徹して、迷夢の覚めたるが如
く覚え候、然したゞ一事申し上げたきは、拙者の暴挙元より無謀とは申
しながら、幕府の圧制に対して起る義憤なり、即ち人民を助けて、強者
に敵するなり、即ち上の不正不義に対して鬱屈せる下情を達するなり、
平八郎は決して天皇に向かつて乱をなすにあらず、唯幕府の暴虐に対し
だつりやく
て起るものなり、幕府は一時天皇の権を奪掠せるものなり、之に向つて
平八郎が義憤を洩すも、何ぞ必ずしも咎むるに足らむやと、意気軒昂た
ほ ゝ
り、皇后は微笑みて、平八郎黙れと制し給ひ、さて/\汝に似合はぬ弁
なにがし
護士の口調、誰に学びたるや、井上某とか云へる赤門博士が『日本陽明
学派の哲学』と題する書を著はして、汝の伝記を録したる中に、只今の
如き弁護説ありたり、汝其文章を暗記して、分疏すると雖も、其時代に
ありては、徳川氏が天皇に代つて、統治の大権を執れば、之に反抗する
者秩序の破壊者として、乱賊の名を免れ難し、然れども徳川氏も亦一意
に鎖国を以て、政治の方針となし、門閥階級を重んじて、平八郎如き人
きそく
傑を下僚に沈淪せしめたれば、其驥足を伸すところなく、鬱屈不平の気
勃発して、当時の暴挙に出でたるなり、
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東湖随筆
戒飭
かいちょく
気をつけて慎
むこと
大辟
重い刑罰
井上某
井上哲次郎
分疏
箇条に分けて
述べること
沈淪
深く沈むこと
驥足
すぐれた才能
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