今回は近世の豪傑天保騒動の巨魁たる大塩平八郎君の伝を申し上まする、
如何に彼が智勇なりしか義侠なりしかは、本伝を一読すれば三嘆の内に自か
ら知るを得ん
そ
扨も此の大塩君の祖先と申しまするは、元亀天正の頃東海に武威を輝やかし
たる今川治部太輔義元より出でましたるもので、其子孫が尾州へ落て参つて、
ま
夫から復た四国へ流れ往きましたのでございます、平八郎君は平太左衛門の
とこ
一子で、阿波国美馬郡、只今の岩倉村字新町といふ処ろで生れましたもので、
ふ と つまこ
生れて三歳の時に父平太左衛門は不斗した病気の為めに可愛や妻子を跡に残
いかばか
しまして死出の旅路に立ちましたから、母なる人の嘆きは幾何りでございま
ともらひ
せう、元より痩浪人のことでございまするから、厚く送葬をするといふ訳に
ほくばう
も参りません、只だ心ばかりの涙を手向け、北 一片荼毘の煙りといたしま
のち ひんく
して、其後は女の手一つとなりましては、ます/\貧困を重ねるばかりであ
しんぜう しま
りますから、遂に身上を終ひまして、聊さか知る人の大坂にあるを幸はひ、
た よ
夫路頼依りまして浪を遥かに便船を求めて大坂へ渡りましたのは、丁度寛政
すゑひ
の八年、平八郎が三歳の秋の下旬方でございました、然るに其母の頼みとい
たしましたるは、大坂で当時東町奉行の手下に従がふ処ろの大塩平次兵衛と
よ そ ぢ きは
いふもので、年は四十路の上を二ツ三ツ越しましたる、悪めて正直律義の人
でありますから、同役の人々には敬まはれ、何不足なき身の上でございます
さき ま
が、先年の秋、妻に死だゝれ、未だ一人の子といふ者がございません、是が
た ね
此人の苦の種子で、常に人に向つて其ことばかりいつて心配をいたして居り
とこ か
ました、処ろへ予ねて懇意にいたしましたる三好平太左衛門が四国で死亡い
たしたりとて頼み少なき其妻子が或日のこと訪ねて参りましたから、平次兵
ねん
衛懇ごろに其家に置き、幸はひ家内のことを片附ける者もなければ、平八郎
の母に万事をさせて、双方の都合甚はだ宜しいございます、されば平次兵衛、
座敷の掃除から洗濯物まで此おしげに任して置きましたが、おしげは当年二
あで
十五歳の美人で、平八郎人一人子を生みましたるが、色香はなか/\に艶や
かに、今を盛りの女でございますから、之を見ては流石物堅い平次兵衛も、
ね や
此道ばかりは別物と見えまして、内々寝床淋しきに、おしげに心を傾むける
様になりましたが、まだ其ことを口へ出しては申しません、併しながら心あ
れば目も口程に物をいひ、
いで
忍ぶれど色に出にけり我恋は
物や思ふと人の問ふまで
かく
と申しまして、中々夫は蔵す訳には参りません、目づかひ手真似、自から様
それ
子に知れるものであります、夫をおしげは察して、斯うも親切に頼る方なき
おやこ
母子を世話して下さるものを、其恩義を知らぬ振りに居るも何とやら、心は
せつ をつと
済まぬ、口に出していはぬ程、尚心の切なるが想はれて、死んだ良人には済
ぬけれど、今の身の上では恩義の為め、且つは子の為めに平次兵衛の心も察
やら いつ
して遣なければなるまいと、思ひましたから何時とはなしにおしげも平次兵
衛の心に従がふ様に相成りましてございます、
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