Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.1.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』 その3

松林白猿 講演

安藤粛太郎速記(英雄文庫 9)萩原新陽館 1901

◇禁転載◇

第一席(2)

管理人註
  

さ        おやこ  あは 左なきだに母子を憫れんで居りましたのでありますから、夫からといふもの は平八郎を我実子の如くに可愛がりまして、或日のこと、おしげに相談をし て平八郎を大塩家の養子にいたしました、然るに後年に至つて大才大技倆の 人物となります処ろの大塩平八郎でありますから、幼少の時から群童に異な つて万事鋭敏活発であります、是に依て母のおしげは申すに及ばず、平次兵 衛も大に喜こびまして、此子必らず後に至つて名を万天に挙げべき者ならん を、心ひそかに望みを属して居りました、ハヤ寛政も十一年と相成り、平八 郎六歳と相成りましたから、物の師を撰んで先づ学問を勉強いたさせますと、 元より好む道でありますから、平八郎毎日風雨も厭はず勉強をいたしました、 然るに其年の四月頃から母のおしげは風の心地で臥しましたが、命数の尽る           処ろか二十八歳を一期として帰らぬ旅に赴むきましたから、平八郎の嘆き一                                 わ か 通りではありません。三歳の折に父に死なれ、今また六歳にして母に死別れ、 是からは真実の親といふものは一人もございません、どうも此の幼少にして    なく              ことわざ       にく 両親を失す程悲しいことはありません、俚諺にも五ツ六ツの悪まれ盛りと申      がんぜ                  しまして、頑是ない小児のことゆゑ無闇に悪まれ口を吐きます、されば他人       にく は皆な其児を悪んで、親が見て居なければ頭の一つも敲くといふのでありま          すから、親のない児ほど哀れの深いものはございません、平次兵衛も恋女房 に死なれまして大層に嘆きましたが、死んで了つたものは最早如何ともいた                                 ねん し方がありません、立派に野辺の送りも済ませ、四十九日や百ケ日も跡懇ご   とも ろに吊らひまして、せめてはおしげが児の愛に引かされて迷はざるやうにと、 其後は一層平八郎を可愛がりまして、実子の如くに育てました、平八郎十二 歳の時からいたして、当時大坂に於て陽明学を以て名高き処ろの中井積徳先 生の門に入りまして、頻りに陽明の学を勉強いたし、十四歳の時より天満橋 詰に一刀流の道場を開いて居る、伊藤軍刀斎の門に入りまして、柔術剣術の 両術を稽古いたしましたが、生れ附たる鋭敏の平八郎、何を学んでも上達が 早く、ハヤ十八歳の暁になりますると、学は陽明の奥を究め、武は一刀流の 極意に達しまして、平八郎の名は大坂市中に鳴り渡りました、されば養父の 平次兵衛も大に喜こんで、平八郎が十九歳の時、即はち文化の九年に至りま して、自分は隠居を願つて養子の平八郎を与力に出しました、平八郎は斯る 文武両道の達人になりましても、自分では未だ此上にも其道を究めやうとい                                よん たしましたのでありますが、養父の平次兵衛が無理に勧めますから、拠どこ                     ろなく、其処で十九歳の時始めて父の跡を続き、与力と相成りました、する              で き                    から と平次兵衛は平八郎が善く成長たのを見て安心いたしましたせいか、急に身 体が弱くなりまして、其年の冬六十二歳で病死をいたしましたから、平八郎 は今は一人者となり、老婆一人雇ひ入て家事万端を世話いたさせ、自分は毎 日怠らず役所へ出て勤めをいたして居りました、

  


『大塩平八郎』目次/その2/その4
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