もく すこ
すると同じ与力の中に吉田杢兵衛といふ人があります、此人は頗ぶる内福の
人で男女両人の子がございます、兄は吉田作左衛門、妹はおまちといつて大
層な美人であります、今年十七歳にして今小町といふ評判をとつた程の美人
ばら
でありますから、大坂城中の若殿輩を始めといたし、町家富豪の若者連が我
娶らんと競ひ居りました、平八郎に於きましても木石ではありませんから其
うはさ
風評は聞て居ますが、女などに心を奪はるゝ様なものではありませんから、
すぐ
好んでおまちを見やうともいたしません、役向の終ると直に家に帰つて一心
それゆゑ
に学問を勉強いたし、又は武術を練磨いたして居りまする。夫故に同役の若
殿輩などは平八郎を変人といつたり、或ひは、時世遅れの人物だといつて相
手にいたしません、皆同気を求むるの輩が寄ては例の吉田のおまちの噂さを
いたして喜こんで居ります、されば其連中は多く杢兵衛の息子作左衛門と懇
意にして、実はおまちの顔を見たさに毎日の様に吉田の家へ往ては、碁を打
ち或ひは将棊を差して居りますが、おまちは中々物静かな娘で学問を好みま
すから、一人下女を相手に奥で和歌を詠んだり物の本を見たりして楽しんで
居りますので、連中はひそかに立て庭の眺める振をしてはおまちを覗いて嬉
しがつて居ります、さればおまちも最早十七歳にもなつて居りますから、男
かしこ をつと
を何とも思はずには居りませすが、女ながらも伶俐いもので、自分の良人に
するには古今に稀なる人物でなれれば、好しや王侯相将の処ろへでも参りま
た と はしな
すまい、又一世に英名を轟ろかす程の人物なら、仮令へ如何なる賤業の人で
も好んで嫁入りいたしたいと思つて居りますから、内々では家へ出入る人々
わざ
を観て居りますが、是といふ心に止まる人もありません、依て態と知らぬ振
で居ります、左様な心懸の美人でありますから、父の口から色々縁談を申し
込まれることを聞ては居りますが、一つも心に思ふ人物がありませんので、
断はつて居ります、然るに当時中井積徳先生の門を卒業したる大塩平八郎、
若年なりと申しながら学力武術共に万人に優れ、身は与力に在りとは申しな
うはさ
がら、後世に雷名を轟ろかすは此人の外になしとの風評でありますから、遂
もと お うはさ
には深窓の下に育ひ立ちたるおまちの耳にも平八郎の評判が入りましたから、
う ち
どうかして平八郎様が自家へ来れば好いと思つて居りますが、思ふ人は一向
どう
に見へません、斯うなると何かして其平八郎に逢て見たくなつて、一人で心
配をいたして居りましたが、其平八郎の家は天満川崎にございますから、之
たびごと
は何でも平生信仰をする天神様へ参詣をして其都度に平八郎様の家の前を通
つたなら見ることが出来やうと思ひ付ましたから、或日のことでございまし
た、父母に申して許しを受け、下女のお初を一人供に連れまして、石駄の音
やが
さら/\と天満の橋を渡りまして頓て参りましたのが天神社内、神の御前に
参りまして、首尾好く思ふ人に逢はしめ給はれと口の中にて祈りを重ねて居
りますると、茲に一等与力で弓削田新左衛門といふ人があります、此人は常
に盗賊を手先に使ひまして悪事を働らかせ、其奪ひ取たる処ろの金銀を両分
にして不義の富貴に其日を送つて居るといふ大悪人、之を真の泥棒の上前取
と申すのでございませう、個様な奴が与力の頭になつて居りますから大坂で
どう
は何しても盗賊が捕まりません、是に依て毎夜の様に大坂市中では強盗窃盗
などが這入りますから、市中良民の苦しみは一通りでありません、一々之を
奉行所へお訴へ申しますが、其頃の与力は大抵新左衛門か手下の様なもので、
いづ まいない
孰れも賄賂を取て居りますから、上辺は厳重に盗賊を探偵いたす様に見せか
がうたう
けて、其実は手下の奴が賊盗をしたり窃盗をしたりするのでありますから、
盗賊はます/\殖へるばかりであります、
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