とん
「イヤお女中方、飛だ目にお逢ひなされた、併し幸はひ拙者用事の戻り道、
此処へ差掛つてお救ひ申したが、之は拙者の役目でござるから、決して左様
はび
にお礼を申すには及ばん、白昼とは申しながら当時大坂には悪人蔓こつて居
り、個様なことをいたさするとは実に我々の恥づる処ろでござる、此上も尚
ほ悪漢共に出逢ふやうのことがあつては相成らんじやに依て、拙者がお宅ま
で送り届けやう」
といへばおまちの喜こび一方ならず、
「誠とにお有り難うございます、何とお礼を申し上て宜しいやら、言葉も出
せ ふたおや
でません、切めては両親に申しまして及ぶだけの御礼に、此御恩の万分一を
もと思ひますれば、何卒此上とも身勝手を申しては相済みませぬが、私共の
宅までお送り下さる様にお願ひ申します」
「シテお宅は」
ほと
「ハイ心斎橋の側りでございまして、与力の吉田杢兵衛の家でございます、
私しは其娘のまちと申すものでございます」
「ハヽ然らば同役のお娘さんでございましたか」
あなた うけ
「失礼ながら貴郎様のお名前を承たまはり、両親に申しとうございます」
「イヤ別に申さんでも御親父と同役の者でござるから、御面会申せば直に知
れまする、無益の問答を此処でいたしまして居らうより、一刻も早く参りま
せう」
とゞ
と尚もおまちが何かいはんといたしまするのを、平八郎は制めましておまち、
お初を先に立て、心斎橋から左りく切れて少し参りますと、与力吉田杢兵衛
うち いへ
の家でございます、家の前へ参りますと、杢兵衛が丁度外へ出やうとする途
端でありました
「ヤツ是は大塩氏」
「是は吉田氏でござるか」
よ いと そ ち まみ
「好うお出で下された、シテ娘や、其力は髪も乱れて居るし衣服も埃に塗れ
て居るが、一体どうしたのじや」
と聞れまして、おまちは今更に悲しくなりまして、涙を一杯に眼の中に浮め
とゝ
「お父様、只今其訳をお話し申しますから、何ぞ其お方をお座敷へ通して下
さんせ」
いと
「ウム/\、訳は何だか知らんが大塩氏、初めてのお出でゝもあるし、娘が
どうぞ
左様に申しますから、何卒むさぐるしくともお通り下され、サアどうぞ」
といはれまして大塩平八郎
「然らば御免下され」
と挨拶に及んで座へ通りました、其処で娘のおまちより天神社前で悪物に出
つぶ かた
逢ひたることを曲さに両親に語りましたから、両親の驚ろき一方ならず、夫
より厚く平八郎に礼を述べ、何はなくともといふので、お定まりの酒肴を出
も て
して饗応なしました、娘のおまちは大塩平八郎といへる当時大坂第一の人物
に逢ひ度て天神様へも祈つた程でありますから、いそ/\として嬉し喜こび
しとやか
まして、平生の温和なるにも似ず、我を忘れて平八郎の側へ寄て色々と礼を
やが
述べ、頻りに酒を勧めなどいたして夢中になつて居りましたが、軅てハツと
気が付きまして平八郎の側を立ち、母の後ろに隠れて耳まで赤くしてモヂ/\
して居ります
|