「是は吉田氏、少しばかりのことよりいたして大きに御馳走に相成り誠とに
お
済みません、大分日が下りましたから、是にてお暇をいたします」
たし
と元より嗜なみません酒ゆへ、痛く酩酊をいたして了ひました、丁度兄の作
つ
左衛門は朋友に伴れられまして外出いたして居りましたから、家には杢兵衛
夫婦とおまち、お初の外に誰も居りません
さ ゝ
「イヤ大塩氏は学問武術の方では並ぶ者もござらんが、御酒の方は遠く杢兵
ごしゆ
衛などには及びませんな、併し余りお軽い御酒が参らずは、おまち、早く御
飯の用意をしてお出で、何を子供らしく母様の後ろにばかり居るのぢや」
といはれておまちは尚ほも顔を赤めましたが
「ハイ」
につと えみ ゆふげ
と答へて莞爾と笑を含んで用意の夕飯を央へ持ち出でま
して、平八郎の前へ押し直します、平八郎は
「是は誠とに相済みません」
ほん
「イヤ、何もござりません、真の時分凌ぎでござります、何ぞ充分にお過し
を願ひます」
どう
「然らば折角の御志ざしでござるから頂戴仕まつります、何ぞ御酒の方は是
にて御免を蒙むります」
しゐ や
「左様なれば好まぬ物を強るは却つて失礼でござるから、酒の方は止めて拙
者も御請伴いたしませう」
と律義一片の杢兵衛、大塩と共に夕飯を喫し終りますると、大塩は寸陰を惜
いと
むといふ人でありますから、其処で直に暇まを告げて帰りました、杢兵衛夫
婦の喜こびは一通りではございません、又娘のおまちも計らざりき今日危難
こつがら
の為めに大塩平八郎に逢ひ見ますると、聞しに勝る人品骨格でありますから、
うち をつと
心の中では、此人の外に良人にすべき人は大坂広しと雖ども又となしと思ひ
うはさ
ました、又大塩平八郎も木石ではありません、風評では今小町といふ名を聞
て居りましたが、何、高が婦人、何程のことのあるべき、美人とて我心を迷
わしめる程の者はあるべきやと思つて居たのでありますが、今日計らずも其
あ
今小町の危難を助けて見ると、実に捨難き美人でありますから、彼の美人を
あた のこりを
惜ら他人の眺めにするも何とやら遺憾しく思はれました、併しながら大豪傑
の平八郎、貴重の瞬間も空しくして、他の若侍らひの様に吉田の家へ毎日遊
たが
びに行くやうなことはいたしません、毎日時を違へず勤め向大事にいたし、
まなこ
家へ帰りますと一心不乱に学問に眼をさらして居ります、此方はおまち嬢、
大塩に危難を助けられてからといふものは、平八郎に迷ひ込みまして、其こ
とのみを思ひ、一度位ゐは平八郎様がお出でになりそうなものだと、毎日奥
に居て人の来る度に、若しや其人でないかと思つて覗いて見ますが、皆別人
そとで
であります、恋し/\と思つて居りますが、外出をして又先日の様なことか
あつては太変だと、恐れて外出はいたしません、然るに或日、御免といつて
そつ
這入て参つたのが大塩平八郎であります、おまちは誰かと思つて窃と覗いて
見まするといふと、毎日恋し/\と思ひ居りましたる大塩平八郎であります
あか
から、思はずハツと顔を赤めましたが、幸はひ誰も見る人も居りませんから、
其儘知らぬ振で居りました、
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