Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.17

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「大塩中斎の学を論ず」その2

松村介石

『人物論』警醒社書店 1895 より

◇禁転載◇


 (此は演説を佐藤平治君が筆記せられたるもの也)

舜在位天下皆安其堵、是れ事を為すに旡心を以てなり、武王伐紂、而君子不咎之、是れ一意専心、民の為めに図り、豪も己れの私利私慾を省みざりしによる、此れ儒道の真髄なり、

人這般の真味を感得せハ、百事皆活動し、天下を横行し得へきなり、故学陽明者、皆有実徳、非道徳家、聖と傑とを兼るたる実際的人物なり、之を以て陽明のハ大に支那に於て忌まるゝ所なり、蓋し死人活物を怪むの類乎、

諸君吾人青年ハ大に此に注意せさる可からす、人我を擇て議士となさんか、其位に在りて、可なり、人我を撰まさるか、亦可なり、此等の事に局屈せすして、而て実力漸次に進むへし、是れ蓋し理以て説く能ハす、口以て云ふ能ハさる所、宜く沈思黙考、陽明中斎を自得する所ありて可なり、

小楠又嘗て詩あり、曰く、

此詩也即大虚の気なり、今空を見るに、自然に風雷震ひ起り雨雪降る、而して仏の徒は曰く、一切空なり、故に雨雪風雷皆空なりと、此其人の為め、国の為め、大事業を為す能ハすして陽明の徒独り、此等の事業を為すに耐ふる所以なり、

海舟の所謂平心なる者、亦大虚に外ならす、海舟嘗て云ることあり、曰く、世人ハ皆云へり、勝ハ西郷、木戸等に与みし、累代の厚恩を担ひたる幕府を倒したり、不忠悖逆其罪誅を容れすと、然り、世人我を不忠と云ふ可なり、世人我を不悖逆と云ふ亦可なり、平心是れ実に我師なり、維新の当時、若し夫平心私を捨てゝ深慮せハ、必ずや其戦を為す可らさるの時なるを知らん、若し私あらんか、必す戦ハさる可らさるの時なりと、

旨ある哉言也、若し当時に在り、宇内の心を有し、天地の大道に依り、宇内の大勢に鑑み、日本全国を省みて考慮するときハ、蓋し、思ひ半に過きん区々たる江戸些々たる幕府豈海舟の眼に在らんや、若し夫れ回収をして一たび戦を唱へんか、幕府末運に属すと雖、三百年来積勢の致す所、箱根以東ハ又朝廷の有に非るへし、况や各地に佐幕の諸侯少からさりしに於てをや、幕府此勢に乗し、法親王を擁して天下に号令せんか、再ひ南北朝時代の惨状を免れざるべし、然るに、外に在てハ英魯の覚(?)を窺ふあり、内に在ては兄弟垣に鬩く危ひ哉、印度緬絢の轍を踏まさる者、殆ど稀なり、海舟是に於て平心に大勢の趨く所、国運消長の関する所を慮り、己の名誉と生命とを犠牲に供して、平和主義を採りたり、是吾人後進の学ふへき所ならすや、嗚呼海舟ハ夫れ大虚にして利済を兼ねたる者歟、

海舟の当時豈に死生の念、胸間に蟠まる有らんや、大虚を心として進む者ハ、豪も死生の念に拘束せらるゝことなし、是れ大虚にハ豪も私勿れハなり、彼美たる花枝頭に咲ふや、嫉雨妬風の襲ふなきを期せす、汚泥塵芥に蹂躙せらるゝなきを期せす、花にして若し一点の私あらんか、危険を怖れ、周囲を憚り、終に開く能はさるへし、然るに、万物ハ旡心なり、赤誠の発する所、花弁爛々人目を眩し、芳芬馥郁天真を曲けさる者 花豈私あらんや、友人松山高吉氏 *1 歌あり、曰く、

彼紅葉は已に散るゝに垂んとするも、色を蜀紅に染めて而して散るに非すや、中斎の叛を謀りたる、亦此に外ならす、蓋し彼赤誠の発する所、一死以て満足したりしならん、

昔者孔門の徒三千人、六芸に通するもの七十人、子貢の雄弁子路の勇剛、而かも顔子に如かざるハ何そや回也、如愚而して孔子の真意を悟りたり、活然大悟すと云ふ者、何そ理にあらんや、何そ語にあらんや、自ら之を感得するに在るのみ、故に釈子ハ之を一字不見と云ひ、孔子ハ我欲無言と云ひ、基督ハ有耳而聴者可聴焉と云ふ、此皆黙して悟らしめんことを欲するなり、

諸君幸に海舟か小楠の一絶に感し、是に師事したる所の真味を玩索せよ、這般の妙味ハ、心耳を開くに非すんハ、到底之を自得すること得ざるへし、

終に臨て一言せん、我基督教ハ、大虚利済等ハ言を須たす、加之天真にして天より聳ゆる如き者なり、陽明中斎の徒、若し此路を聞くことを得たりしならハ、必すや其門下に趨りたるなるべし、実に此教や絶高なり、極美なり、故に単に耳ありて聞ふる者は聞くへしと、放任するに於てハ、多く惑ふ者を生すへし、是れ決して基督の志に非るなり、又神学上の議論多岐ならんか、茫漠として、終に不信者となる者あるに至らん是れ実に今日の大患なり、然ども、此伝道を勉むるに方り、其説く所、徒らに細末に走り、支離滅裂に至る時ハ、真人物遂に来らす、傑出の士遂に到らさるへし、彼ヒユームの如き、ミル の如き、前者は必ず基督教に大真理あるへしと信し、之を研究するも、牧師小乗を談し、教師誤魔化を説く、而して彼れ遂に要領を得す、後者ハ若し神か神学者の説く如き不都合の者ならんにハ、余を地獄に遣ハさハ、直に之に赴くべしと叫ひ、悲矣哉、二人共に活眼を開て、天地の大道を感得する能はさりしハ、実に憫然なる事ならすや、

嗟今日ハ実に困難の時期なり、若し世俗に投せん為めに小乗を説かハ、遂にミル、ヒユームを誤るの失に陥るへく、若し直に其真義を説かんか、嗟躓する者多かるへし、然とも、基督教の真髄は、無我無偏にあり、基督の教を説くや、侃諤己ます、而して泣き、而して怒り、老幼皆其友、賢愚皆同胞、恰も花の開凋の如く自然なり、而て遂に十字架上に我事了はれりと説き、其働きたる所、皆人の益となり、国の為めとなり、万世の手本となり、遂にハ復活の大真理となれり、君人ハ固く其肉体の復活を信して疑ハさる者、而して其復活ハ単に肉体に於けるのみならす、霊の復活に至てハ千八百年後の今日尚活動するに非すや、

嗟基督の復活や如此、大塩の復活は、実に維新革命の先導者となりたり、吾人も亦無心大虚にして、為す所利済死生を忘れて自然に進まんか、始めて国家の為め、民衆の為め、尽すことを得へきなり、満場の青年諸君々々ハ我日本国の元粋なり、我日本国の隆替ハ、全く諸君の手に在り、

乞ふ、宇内を通して霊活神動せよ、而して我事を了ハらしめよ、万世に復活するの大偉人となれよ、


*1 松山高吉(1847〜1935)キリスト教者。


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