瀬 田 先生、この際は一段沈潜して形勢を御覧になるが宜しいかと存じ
ます。跡部さまは壮年客気にまかせて、御自分の施設に功をほこる
なんびと
心がございます。何人の言葉にも耳を傾けはいたしますまい。
平八郎 うむ……。(眼前の一点を凝視して、沈思)
渡 辺 (平八郎の揮毫を讃み)人随無事酔明時。柔脆心腸如女児
――。全くこの通りでございます。今の政治家は政治のための政治
で、人民のための政治とは思はれません。
瀬 田 (微笑)却衝秋熱攀山嶮。誰識独醒慎独知――。先生、やは
りこのお心よりほかに仕方がございますまい。
庄 司 (格之助に)若先生、早朝よりの御当番でお疲れでどざいませう。
御休息なされては如何でございます。高上から手前名目で買ひ求め
ました火薬について、お話もあります。お立ちなさい。御相談いた
したうござります。
庄司、傍に立ちて格之助を促す。格之助、平八郎に一礼して憤然と
して立ち去る。
あつま
平八郎 (独語のごとく)雲烟は己を得ざるに聚り、風雨は己を得ざるに
洩る。瀬田、おれは恐ろしい時代に際会してゐると思ふぞ。
瀬 田 はい。
めいちよう
平八郎 おれは好んで過激な言葉を弄するのではない。過去の歴史に明徴
けんかく
がある。世に貧富の懸隔はなはだしき時、その国は必ず乱る。目前
の事情がそれではないか。この眠れる庶民の怒り立つ時、その怒り
おそろ
は虎狼の群よりも懼しいと思ふ。(呻吟するやうに)高が二百石、
与力隠居の察当――。鳴呼、跡部にはおれの言葉が、察当と聞える
かなア……。
一同、顔を見合はせて無言。
塾生河合八十次郎、慌しく走り来る。
八 十 大先生、長崎から宇津木塾頭がお帰りになりました。
平八郎 矩之允が帰つた。何処に、何処にゐる。
八 十 お玄関に、いま草鞋を脱いでゐられます。
平八郎 然うか、宇津木が帰つたか。然うか、然うか。
平八郎、欣然として落着きなく、玄関の方へ走り行く。渡辺、吉見、
八十次郎などその後につゞく。
庄司、勝手より出で来り、同じく玄関に行かんとする。
瀬 田 儀左衛門、(庄司を呼び止め)やはり君の心配する通りであつた。
埒もないことになつた。
庄 司 少しく気をゆるやかに持たれませぬか、御気性とは申しながら、
はた いた
傍で見るのもお傷はしう思ひます。
瀬 田 小泉、こりや平山にも相談せざなるまい。
庄 司 平山もうす/\は、聞いて知つて居りませう。
瀬 田 それにどうも……酒も過ぎるやうだ。顔色が悪い。
庄 司 御病気が再発しませぬか、心配でござります。
瀬 田 それよ、なア――。(腕組みして、嘆息)
平八郎、宇津木の門弟岡田良之進を連れて入り来る。良之進、十五
歳、柔和さうに色白く、内気らしき少年。旅行姿にて脚絆など着け
たり。
平八郎 (岡田の頭など撫でつゝ)瀬田、小泉。これが矩之允の弟子なさ
うだ。長崎から随行して来たのだ。十五歳と云ふが、年齢には大き
いではないか。はゝはゝゝ。好く来た、好く来た。どうだ大坂は賑
はしからう。今に案内して見物だ。はゝはゝゝ。
平八郎、良之進を傍に坐らせ、ひとり悦ぶ。
宇津木矩之允、諸生に取り巻かれて快濶に談笑しつゝ入り来る。
年齢二十八歳。顔面ゆたかにして温厚さうなる青年。絶えず微笑を
貯ふ。質素なる着衣、旅装。
宇津木 (平八郎の前に跪坐して)先生、只今帰塾いたしました。お蔭を
もつて、諸方ゆる/\と遊歴して参りました。
平八郎 (思はず指差す)肥つたなア――はゝはゝゝ。少しは飲めるか。
い のんき
宇津木 その方は……相変らず可けません。たゞ田舎廻りでいくらか暢気
の修業をいたしました。
平八郎 どうだ。少しは恐ろしいやつに会つて見たか。
宇津木 いゝえ。一向――。(微笑)やはり恐ろLい咆哮の声は、大坂の方
から聞えました。
平八郎 駄目だ。はゝはゝゝ、駄目々々。(快然と大笑Lて、手を振りつゝ)
その虎は檻のなかに繋がれた。山林野生の猛獣ではなくなつた。駄
目だ、駄目だ。
宇津木 然し九州諸国にも……
平八郎 駄目だ、駄目だ。虎は檻につながれた。はゝはゝゝ――はゝはゝゝ。
平八郎、突如としてまた継穂なく哄笑する。
――(幕)――
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