八十次郎、英太郎、葦束を差し担ひにして、面白さうに掛声して通
りかゝる。
宇津木 (後なる吉見を見て)君、君、吉見君。
英太郎 は。(立ち止る)
宇津木 大井君や安田君に話して、明日の輪講会を催促してくれたまへ。
英太郎 は、畏りました。
両人、また掛声して走り去る。
岡 田 先生が慨然発奮して学問に志したのは幾つの時です。
宇津木 あれは十七の時かねえ。発奮ぢやないよ、青年の功名心に駆られ
て、坊主になるのが悲しかつたのさ。(微笑、両膝を固く抱いて、
瞼を細めて、土に落ちる静かな冬の日を見詰むる)今考へると、果
いづれ
して何方に本来の自性を見出したか分らない。然し、その後京都に
放浪して、貧書生の辛酸をつぶさに嘗めながら、山陽先生の門を叩
そういん けいしよ
いては人物に失望し、棕陰に失望し、敬所に失望し、殆んど自暴自
棄にも陥らんとした時、人にすゝめられて中斎先生の帰太虚の説を
読んだ。あの時ばかりは全く、瞠目して喪心する思ひであつた。四
五日の間はもう興奮して眠られない。殆んど寝食を廃して、焼きつ
まなこ りくしやうざん
くやうな眼で、陸象山の全集を耽読したものだ。あんな青年時代の熱
は、もう二度と来ないねえ。はゝはゝゝ。(寂しく笑ふ)
岡 田 先生はこの頃、何か心中に御苦労があるのぢやありませんか。
宇津木 (独語のやうに)僕は大塩学に心酔さしたのは先生の太虚説だが、
また然し僕を大塩学から逐ひ出すのも、やはり同じ帰太虚の学説の
やうな気がして……(嘆息)どうも分らなくなつて来た。
宇津木、膝に顔を突ツ伏して瞑想に耽る。
ひそ
平八郎門人平山助次郎、周囲に注意しつゝ窃かに入り来る。
助次郎、三十二歳、同じく東組の同心にて、町目付の役を勤む。小
心にして利害に鋭敏なる男。
平 山 (頭巾を取りて、小声)宇津木さん。
宇津木 (顔を上げ) おゝ、平山君か。どうしました。
平 山 長崎から御帰塾のことは聞いて居りましたが、昨年正月、町目付
方にお役を受けまして、近親友人とも交際を遠慮いたさなければな
りません。何分同僚友人の勤方を監察し、その他隠密御用を勤めま
すため、自然洗心洞の諸先輩にも遠々しくして居ります。
宇津木 そりや窮屈だらう。然し、それも御出世です。
平 山 時に内密の用事ですが、今日先生のお宅へ同役の庄司が上つては
居りますまいか。儀左衛門でございます。
宇津木 先刻見かけましたよ。火薬製法の手伝ひに来てゐるやうです。
平 山 恐れ入りますが、私と云はずに、ちよツとお呼び出しを願はれま
せんか。
宇津木 急用ですか。(不審さうに平山を見詰める)
平 山 は、少しく……御上御用の匂ひもございます。
宇津木 岡田、君行つて呼んであげるといゝ。たぶん作事揚だらう。庄司
ひと
さんだよ、かなり年配の仁だ。
岡 田 は。
岡田、走り行く。
宇津木 お掛けなさい。(座をゐざりて)暫くぶりでしたなア。
平 山 は、有りがたう……。(佇立して思案する)
宇津木 何か起つたのですか。先生……ぢやないですか。
平 山 いえ……役所うちのことでございます。(気を換へて腰を掛け)
ぎんさう
御遊歴中は毎々先生からお噂が出ました。殊に四国漫遊の吟草など
を拝誦して、御進境の著しさに驚嘆して居ります。
あら
宇津木 ねツからもう駄目です。総ゆるものに感興を失つてしまひました。
もと
わが心のうちに、索むれば、もう詩はありませんね。
平 山 詩と申せば、近来先生の詩作はます/\激越の調を帯びて来まし
くちうら けは
たね。当春の口占など、少し峻し過ぎは致しませんか。
宇津木 さやう……、誰もそれに気がつくと見えます。
平 山 (卒然として)相変らず、御癇癪でせうなア。
宇津木 さあ、僕も一向知りませんが……どうも落着かないやうです。
平 山 お酒もかなり過ぎますさうですが……。
宇津木 憂悶に耐へられないのでせう。然し、あの弱さが……先生の徳性
のあらはれでせう。今度長崎から帰つて気がついたのは、先生のあ
またゝき
の瞬目です。近頃は一層激しいやうに見えます。
平 山 塾内の気風をいかゞ思はれます。非常に斯う、政治的に、空論横
議の風があるとは思はれませんか。
宇津木 (静かに頷首いて)確かに、認めます。
平 山 (熱心に)先月以来、先生は講義にも出席されないさうですね。
事実でありますか。
宇津木 恐らく、聖教の書を講ずるに、堪へ得ないのでせう。
平 山 それは憂国のためですか。自責のためですか。
宇津木 ――?(答へず、対者の顔を見る)
平 山 (やゝ鼻じろみて)何んです。
まさか
宇津木 君は真逆、先生を探偵するのぢやありますまいね。
平 山 そんな ――
ゆら
宇津木 揺いでは、磁石の針のやうにゆれる先生の性質を、門弟たる君は
知つてゐる筈だ。そしてその心の戦慄は、先生自身の鎮静を待つよ
なんびと と
りほか、何人の助力にも救はれるものでないことを、君は疾うに承
知してゐる筈だ。(不快さうに吃ツと云ふ)
平 山 それは知つて居ります。然し――
宇津木 先生のことは先生自身にまかせる。そのほかに対症の法はない。
こは
余計な深切、余計な干渉は、却つて先生のこゝろを擾すものだ。
平 山 は。
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