Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.8.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その15

真山青果(1878-1948)

『真山青果全集 第4巻』 大日本雄弁会講談社 1941 収録

◇禁転載◇

第二幕 (4)

管理人註
  

   八十次郎、英太郎、葦束を差し担ひにして、面白さうに掛声して通    りかゝる。 宇津木 (後なる吉見を見て)君、君、吉見君。 英太郎 は。(立ち止る) 宇津木 大井君や安田君に話して、明日の輪講会を催促してくれたまへ。 英太郎 は、畏りました。    両人、また掛声して走り去る。 岡 田 先生が慨然発奮して学問に志したのは幾つの時です。 宇津木 あれは十七の時かねえ。発奮ぢやないよ、青年の功名心に駆られ    て、坊主になるのが悲しかつたのさ。(微笑、両膝を固く抱いて、    瞼を細めて、土に落ちる静かな冬の日を見詰むる)今考へると、果      いづれ    して何方に本来の自性を見出したか分らない。然し、その後京都に    放浪して、貧書生の辛酸をつぶさに嘗めながら、山陽先生の門を叩              そういん     けいしよ    いては人物に失望し、棕陰に失望し、敬所に失望し、殆んど自暴自    棄にも陥らんとした時、人にすゝめられて中斎先生の帰太虚の説を    読んだ。あの時ばかりは全く、瞠目して喪心する思ひであつた。四    五日の間はもう興奮して眠られない。殆んど寝食を廃して、焼きつ       まなこ  りくしやうざん   くやうな眼で、陸象山の全集を耽読したものだ。あんな青年時代の熱   は、もう二度と来ないねえ。はゝはゝゝ。(寂しく笑ふ) 岡 田 先生はこの頃、何か心中に御苦労があるのぢやありませんか。 宇津木 (独語のやうに)僕は大塩学に心酔さしたのは先生の太虚説だが、    また然し僕を大塩学から逐ひ出すのも、やはり同じ帰太虚の学説の    やうな気がして……(嘆息)どうも分らなくなつて来た。    宇津木、膝に顔を突ツ伏して瞑想に耽る。                       ひそ    平八郎門人平山助次郎、周囲に注意しつゝ窃かに入り来る。    助次郎、三十二歳、同じく東組の同心にて、町目付の役を勤む。小    心にして利害に鋭敏なる男。 平 山 (頭巾を取りて、小声)宇津木さん。 宇津木 (顔を上げ) おゝ、平山君か。どうしました。 平 山 長崎から御帰塾のことは聞いて居りましたが、昨年正月、町目付    方にお役を受けまして、近親友人とも交際を遠慮いたさなければな    りません。何分同僚友人の勤方を監察し、その他隠密御用を勤めま    すため、自然洗心洞の諸先輩にも遠々しくして居ります。 宇津木 そりや窮屈だらう。然し、それも御出世です。 平 山 時に内密の用事ですが、今日先生のお宅へ同役の庄司が上つては    居りますまいか。儀左衛門でございます。 宇津木 先刻見かけましたよ。火薬製法の手伝ひに来てゐるやうです。 平 山 恐れ入りますが、私と云はずに、ちよツとお呼び出しを願はれま    せんか。 宇津木 急用ですか。(不審さうに平山を見詰める) 平 山 は、少しく……御上御用の匂ひもございます。 宇津木 岡田、君行つて呼んであげるといゝ。たぶん作事揚だらう。庄司               ひと    さんだよ、かなり年配の仁だ。 岡 田 は。    岡田、走り行く。 宇津木 お掛けなさい。(座をゐざりて)暫くぶりでしたなア。 平 山 は、有りがたう……。(佇立して思案する) 宇津木 何か起つたのですか。先生……ぢやないですか。 平 山 いえ……役所うちのことでございます。(気を換へて腰を掛け)                              ぎんさう    御遊歴中は毎々先生からお噂が出ました。殊に四国漫遊の吟草など    を拝誦して、御進境の著しさに驚嘆して居ります。                あら 宇津木 ねツからもう駄目です。総ゆるものに感興を失つてしまひました。            もと    わが心のうちに、索むれば、もう詩はありませんね。 平 山 詩と申せば、近来先生の詩作はます/\激越の調を帯びて来まし          くちうら     けは    たね。当春の口占など、少し峻し過ぎは致しませんか。 宇津木 さやう……、誰もそれに気がつくと見えます。 平 山 (卒然として)相変らず、御癇癪でせうなア。 宇津木 さあ、僕も一向知りませんが……どうも落着かないやうです。 平 山 お酒もかなり過ぎますさうですが……。 宇津木 憂悶に耐へられないのでせう。然し、あの弱さが……先生の徳性    のあらはれでせう。今度長崎から帰つて気がついたのは、先生のあ     またゝき    の瞬目です。近頃は一層激しいやうに見えます。 平 山 塾内の気風をいかゞ思はれます。非常に斯う、政治的に、空論横    議の風があるとは思はれませんか。 宇津木 (静かに頷首いて)確かに、認めます。 平 山 (熱心に)先月以来、先生は講義にも出席されないさうですね。    事実でありますか。 宇津木 恐らく、聖教の書を講ずるに、堪へ得ないのでせう。 平 山 それは憂国のためですか。自責のためですか。 宇津木 ――?(答へず、対者の顔を見る) 平 山 (やゝ鼻じろみて)何んです。       まさか 宇津木 君は真逆、先生を探偵するのぢやありますまいね。 平 山 そんな ――     ゆら 宇津木 揺いでは、磁石の針のやうにゆれる先生の性質を、門弟たる君は    知つてゐる筈だ。そしてその心の戦慄は、先生自身の鎮静を待つよ        なんびと                        りほか、何人の助力にも救はれるものでないことを、君は疾うに承    知してゐる筈だ。(不快さうに吃ツと云ふ) 平 山 それは知つて居ります。然し―― 宇津木 先生のことは先生自身にまかせる。そのほかに対症の法はない。                           こは    余計な深切、余計な干渉は、却つて先生のこゝろを擾すものだ。 平 山 は。



























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