大井の怒声に宇津木顔を上げてその方を見る。寂しき冷笑をうかべ
て、また詩稿に朱を加ふ。
ちや
英太郎 (岡田を慰めて)打ツ遣つて置きたまへ。実に過激粗暴な男なん
です。去年の正月、酒に酔つて人を斬つて、それで先生の塾に預け
かしらなみ
られたんです。この頃旧塾の頭並になつたもんだから、余計威張つ
てゐるんですよ。
岡 田 学識はあるんですか。
英太郎 近頃旧塾には会読なぞありません。毎晩議論です。
岡 田 何んの議論?
英太郎 政事を論じたり、時勢を論じたり、たゞ悲歌慷慨すれば好いんで
す。だから僕なんかも、新塾に移りたいとも思ふんです。
宇津木 岡田。
岡 田 は。(初めて宇津木に心づき恐縮する)
宇津木 君、今日の課業が終つたのか。学生の正月は三ケ日だけだよ。
岡 田 は。
りんかうくわい
宇津木 君、君……吉見君と云つたね。君の方の輪講会はどうなりました。
明日行ふんですか。
英太郎 (躊躇しつゝ)さア……まだ、聞きません。
宇津木 洗心洞の学風も変つたねえ。(微笑)大筒もいゝが何処へ撃つ積
りだらう。玄関に脱ぐ下駄の乱雑になつたのを見ても、以前との相
違が知れますよ。長崎から帰つて見て驚きました。
英太郎、俯向く。
宇津木 先生はどうしてゐられます。昨今やはり酒が進みますか。
英太郎 は。
宇津木 (嘆息して)肺が弱いんだからねえ。誰か気をつけてあげてくれ
あ か
ないかなア……。先生は嬰児さんの顔を見る時がありますか。
英太郎 (当惑さうに)さア……存じません。
宇津木 先生も苦しからう……。(嘆息)然し、どうにもならないことだ。
あの境地を跳躍することは出来ないものかなア……。
八十次郎、門前より英太郎を呼ぶ。英太郎、一礼して去る。
岡 田 (日影を仰ぎ)今日もこちらで食事をつくりますか。
宇津木 然うたね、新しく炊くなら……今日は食堂へ出て見ませう。腰掛
けて話したまへ。
岡 田 は。
宇津木 (縁側に腰掛け、両膝を抱いて)どうだ、岡田。そろ/\長崎が
恋しくなるのぢやないか。
岡 田 私は、決心して家を出て来たんです。
宇津木 人間郷愁を覚ゆるは、けつして悪いことではない。(膝頭に頭を
載せて、凝ツと土を見詰めて)艱難にして父母の国を憶ふ、人間の
本情だらう。故郷を思ふのは、やがてわがうちにある天性を見るこ
とだ。わが心性を深めもする、また強めもする。(と感慨深く独語
のやうに云ふ)
岡 田 先生、江州へお帰りになると云ふはどうしました。
宇津木 うん。そんなことも一度考へたがねえ……。
岡 田 中止なされたんですか。
宇津木 いや、まだそれは極めない。僕はこの頃…‥物事を決めるのが恐
ろしくなつた。ゆつくり眺めて結果を待つ、それが正しいのぢやな
いか、とさへ思ふ時がある。
岡 田 謂ゆる良知の声を待つ、ですか。
宇津木 それとも違ふねえ。大塩先生の教ふる良知は、明覚にして霊智、
燭火の明らかなるが如く明らかに、音響の物に応ずるが如く分明に、
一にして一、こゝに有りてこゝに執る――精確絶対のものに外なら
ないけれど、僕にはその直裁簡明が妙に恐ろしく思はれて来た。物
は二つありて正しく、一は二なり、そんな事も云はれるやうな気が
してならない。それもハッキリしたのぢやないよ、実に曖昧なんだ。
(微笑みて)この頃も中庸を読んで、たとへば、あの中字だが、僕
は従来の註釈では到底堪へられなくなつて来た。僕はこれをも一と
は見たくない。両端に分たるべき一とは見たくない。両端に存する
ところ即ち一なりと云ひたい。然しこんな邪説を先生に聞かれると
忽ち杖だ。打たれるぞ。はゝはゝゝ。僕はねえ、元来、家の厄介者
の四男坊に生れて、子供の時には越前の禅宗寺へ養子にやられたの
だ。そのため多少とも禅家の教育をうけてゐるので、その虚無、寂
滅の観念が今日なほ僕に影響してゐるかも知れない。あゝ江州へ引
ツ込んで、また禅宗坊主にでもなるかなア……。
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