河 合 八十、八十……八十次郎! えゝ、勝手にしろ。(と諦めて戻り
来て、平山に)どうなつた、えゝ、話はどうついた。宇津本に頼ん
だら好いだらう。そこに居た、呼んで来ようか。
平 山 待てよ。少し落着いて考へようではないか。
河 合 だから、だから俺に委せろと云ふんだ。先生だつて大塩だつて、
おれは突ツ張るところは突ツ張る。貴公等はとかく因循過ぎる。明
にがにが
日にも、今にも、お触れ出しになつたらどうするんだ。苦苦しいこ
ツた。おれは、うぬが飯の上の蝿だから追ふのだ!
宇津木、良之進をつれ、濡れ手を手拭にてふきつゝ入り来る。
河 合 塾頭、塾頭。
平 山 (目にて叱り) 河合、また出過ぎる!
河 合 (むツとして)然うか――。悪かつた、帰る。
河合、去る。
宇津木 (岡田を塾舎に遣りながら)何か起つたのですか。
平 山 どうも軽燥な性質で、火を見た馬のやうに騒ぎたがります。では
庄司兄、わしは隣家の瀬田氏のお宅でお待ちしよう。
庄 司 直ぐ後始末して行きます。
平 山 宇津木さん、又お目にかゝります。(一礼して歩み出し、奥の方
い
を見て驚く)先生だ、先生だ。こりや可けない……。
平八郎、弓の折れを杖に曳き、俯向きて何か考へつゝ門口の方へ奥
を通る。
平 山 (仕方なく声を掛ける)先生、先生。
平八郎 (陰の声)おゝ助次郎か。久しう会はなかつた。
平 山 御遊歩でございますか。
かはべり
平八郎 (沈みたる声)うむ。一日に一度は川縁を散策しないと気色が悪
い。これも永年の習慣だ、誰か。ゐるのか。
平 山 は、あの……
平八郎 (声) 宇津木兄もゐるな。これも久しく会はなかつた。(寂
しく笑ひながら、姿を顕はして来る)同じ家にゐながら、少し遠い
やうだの。
宇津木 (微笑)先生、淀川堤は寒うございますよ。また風が出ました。
平八郎 (一つ二つ軽く咳嗽して)うむ、寒いから出て行く。体をいたは
ぢぐせ
つては地癖になる。
平八郎、疲れたやうに縁に腰掛け、柱に凭れる。
庄司、目礼して去る。宇津木、室内に入る。
平八郎 平山、当時世上の景気はどうだ。
平 山 予想以上の凶作と見えます。廻漕米がほとんどございません。
平八郎 人間、食はなければ死ぬぞ。貴公等、知つてゐるか。
平 山 は。
平八郎 その中で、道頓堀の芝居は大入り続きなさうだな。
平 山 は。
平八郎 気がついてゐるか、それなら好い。町目付の職掌を忘れるな。
平 山 は。
平八郎、縁側にありし宇津木の詩稿を取りて、見る。足先に寒さを
感じて、両足を裾にくるみて読む。
平山、手持ちぶさたに佇む。
宇津木 先生。(自用の座蒲団を持ち来り、平八郎にすゝめる)
平八郎 あん、有りがたう。(なかば無意識に坐り)これは漫遊中の詩草
だな、詩はあがつたな……。
しわう
宇津木 いゝえ。(微笑)暇にまかせて雌黄を加へて居ります。
平八郎 心境が澄んでゐる。むゝ、格調も高くなつた……。(独語のやう
に嘆声を洩らしつゝ読む)
間。
平 山 宇津木兄、失礼いたします。先生、御免下さい。
平山、去る。
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