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大井正一郎、したゝかに酔うて入り来る。
よ ろ
大 井 (蹣跚めきつゝ)先生、何故あの時、わたくしにも云はして下さ
らないんだ。
平八郎 (大井を見、後)後世は金銀が、そのまゝ人間の欲望となつた。
融通のために仮に用ゐた金銭が、今は物品のさかひを越えて、人心
を動かすちからとなつた。その金銀が政治の権と結びつく時、そこ
もろ/\ ひせい
に諸々の邪悪、秕政が行はれるのだ。金力が金権に移つたのだ。好
むざん
く見ろ、三都と云ふがなかにも、近年大坂金持の放埼無慙さはどう
かしがね
だ。諸大名に貸銀して莫大の利得を得てゐながら、様々の名目のも
おあてがひ
とに諸家の扶持米御充行を掠め取り、なほ飽き足らず僣上にも、大
名家の家老用人などと格式まで奪ひ取つてゐる。彼等は恐るべき金
力を右に、支配の権力を左に握つて、実に傍若無人……、万物一体
の仁を忘れ、わが得手勝手に政道を曲げようとしてゐる。
吉五郎、興味なさゝうに聞き、酒を飲む。
大 井 大塩先生。(両手を柱に搦み、声帯を搾るやうにして叫ぶ)
平八郎 喧ましい。(門弟を叱し、穏かに吉五郎に)金持とは何んだ。彼
に何んの産業がある。彼等はたゞ、金銀を死蔵する無頼の遊民だ。
然るに現在の役人奉行は、その無頼遊民の庇護をうけて、辛うじて
財政を運用してゐるのだ。金持の前に頭が上らないのだ。金持町人
の機嫌をとつて下々の難儀など顧みてはゐられないのだ。今日諸役
こまぬ
人ども手を拱いて窮民救済に誠意がないのは、要するに政治の大権
が金力に圧倒されてゐるためなのだ。駄目だ。最早や役人どもなど
ぶ
に待つ時ではない。びつこ馬は撻たれるほど動かなくなる。はゝ
はし
はゝゝ。(快然と笑つて)おれも馬鹿だ、ぴつこ馬を馳らせようと
して旧冬以来さん/゛\手を焼いたのだ。その位に在らざればその
政を謀らずの本文を正直に守り、跡部に功をなさせて時務の難を救
ふべく肝胆を砕いて再三再四上書も建白もして見たが、やつぱり駄
目だ。駑馬ほど、鞭には驚かない。はゝはゝゝ。この上は金持町人
自身を動かして、その反省を求めるより外に策はない。
吉五郎 それとて、何んになりませう。(冷然として飲む)世間に食ひ足
らぬ者は多く、食ひ余ると云ふ者は少うございます。
平八郎 (むッとして)然し、有り余るものが足りないものを救はずして、
誰が救ふ。
ひら
吉五郎 救ふ。厭やな言葉だ。(吐き出すやうに)手の平からものを投げ
るやうな言葉だ。
平八郎 なら、今の世をどうする。一日二日の稼ぎするものが、どうして
一升二百五十文の米が食へる。
吉五郎 成るやうに成りませう。それが世間だ。
平八郎 (屹ツとして)吉五郎、貴様謀叛を待つてゐるな。
吉五郎 とんでもない……。(思はず平八郎を見詰める)
平八郎 (声を柔らげて)その絶望はいかぬ。誰しも窮民の難渋を憂へぬ
ものはない。
吉五郎 憂へたり救つたり、両方はなりますまい。はゝはゝゝ。
大 井 (又、顔を上げ)先生、宇津木をあのまゝ置かれますか。
平八郎 吉五郎、おれは跡部には失望したが、自分の誠意に失望はしない。
第二、第三、第四、建言は順次にやぶり棄てられても、おれは第五、
すく
第六の策を立てゝ世を済はずにゐられない。おれは決心して、鴻ノ
他に行つた。そして当主に説いた。
吉五郎 鴻ノ池でござりますか……。(冷笑を含む)
ひが
平八郎 然う僻んではよくない。金持とて人間だ、人に忍びざるの心はあ
るのだ。訳をもつて問へば、誠をもつて応へる。現に六万両の救助
金に、彼はこゝろよく応じてくれた。
いた
吉五郎 昔から、神信心と施しとに、身上を傷めた金持はないと申します。
平八郎 然し、鴻ノ池一門は、旧家だ、名家だ。さすがに冥利を知つてゐ
る。
ぶげん
吉五郎 冥利を知るほどなら、あゝは分限になりますまい。
大 井 (上り段にべタリと腰掛け)先生、撲たれてもいゝ。彼は奸物で
す。彼が世事に超越して見えるのは、一箇の俗才に過ぎません。彼
は洗心洞の反逆者です。
平八郎 (聞かぬさまにて)吉五郎、おれはこの元旦、衣服をあらためて
ふ と
雑煮の膳に向つて、太箸を取り、食はんとして、不図涙が……止め
度なく頼を流れてゐる。いま市中にさまようて飢寒に苦しむ人々を
思ふと、結構に料理した雑煮の餅が、急に咽を下らなくなつたのだ。
その時の詩だ。忽思城中多菜色、一身温飽愧于天――偽らざる
その時の心持なのだ。同時に稲妻のごとくわが心を掠めたのは、何
故おれは食つて彼は食はぬか……と云ふ言葉だ。誰でも深く考へて
見るが好い、何故おれは食つて彼は食へぬか……考へるほど心に寒
しようぜん
く、悚然として戦慄せずにゐられない、人間の大きな問題だ。
吉五郎 旦那はやつばり学者だ。わが物差で人の背をはかる。
平八郎 (腹立たしげに)何故おれに有つて、彼等には無いのだ。
吉五郎 それは、問ひにはなりませぬ。餅の無いやつは食ふな、食はずに
死ね、斯う教へられて居ります。
むご
平八郎 その世間を惨い、惨酷とは思はないか。
吉五郎 それまで考へては、われ/\など生きる場席がごぎいませぬ。
平八郎 然し吉五、人間の本然には、善をなさずにゐられない強烈なる要
求もあるのだ。如何にお前が拒んでも、その霊性を見ずに居られな
い時が来るのだ。お前はそれを見る時がある。
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秕政
悪い政治
駑馬
(どば)
足ののろい馬、
才能の劣る人
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その63
悚然
ひどく恐れるさま
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