Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.8.17

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その22

真山青果(1878-1948)

『真山青果全集 第4巻』 大日本雄弁会講談社 1941 収録

◇禁転載◇

第三幕 (3)

管理人註
  

   この時、中の間の奥にてドツと賑やかに笑ふ女どもの声、聞える。                         しづ    平八郎、屹ツとその方に耳を聳てしが、やがて徐かに云ふ。          きん 平八郎 論語にも、均なれば貧しきものなく、和なれば寡きものなし、と    云つてゐる。今日の危険は、第一上下貧富の懸隔にあるのだ。上を     そ    あはれ    殺いで下を恤む、何よりの急務だ。吉五郎、お前は身分柄にも似合             ほ ん    はず、仮名つきの経書も少しは読んだのだ。お前が先に立つて、そ    のやうな自暴自棄の言葉を発しては相済むまい。広く人の為め国の    ために考へて、世間の一悪を去ること、農夫の務めて雑草を去るご                              とくしなければならない。疲れてはいけないぞ。倦んではならない                      くちつゝ    ぞ。獣窮すれば即ち齧み、鳥窮すれば則ち啄く、民窮すれば則ち騒    乱のほかはないのだ。 吉五郎 何、その心配はござりませぬ。(冷笑)人間はみなわが世に馴れ    て居ます。                        やぶ 平八郎 足寒ければ心をそこなひ、人怨むれば国を傷ると云ふ。おれは、    何時その時が来ないとも限らぬと思ふ。鳴呼、このまゝには済むま    い、このまゝには済まないと思ふ……。(額に手を加へて、独語の    やうに呟く) 吉五郎 はゝはゝゝ。(飲む)    美吉屋の妻おつね、五十歳、晴れの産衣を飾りし嬰児弓太郎を前帯               うつぼ    に抱きて来る。美吉屋は靭油掛町の手拭仕入業にて塩田氏、大塩家    の遠き姻戚にあたる。おつねは紋服。平八郎の妾おゆう、これも紋    服にて中の間の入口に立つ。養女おみね、おいく、下女など賑やか    に見送る。               わ こ おつね それではおぢい様、和子は初めの宮詣でに行つて参じます。(嬰    児を、平八郎の前にかゞませ)この愛くるしい晴れ姿を、どうか祝    うて下さりませ。 平八郎 (弓太郎を見ず、おゆうの目を見詰めつゝ)この刻限に――もは    や日暮れに近い。 おつね 祝ひの日は、先に延ばしてはなりませぬ。それに天満の天神さま    なら、つい目の先でござります。 平八郎 (苦々しげな目を放して)女どもに委せた、どうでも好い。    おつね、嬰児に一礼させて去る。内玄関の方に賑やかなる女どもの    笑ひ声溢れ、やがて火打ち石の音など聞える。    賄方三平、食堂の用意を終りて、戸口に出で、食時の拍子木を鳴す    らす。 大 井 (眠りかけし目をひらき、胡坐を組み)宇津木の処分はどうなさ    る。僕は今日、破門を覚悟で飲んだんだ。彼は先生のために、心中    の賊だ。 平八郎 (睨み、舌打ちして)後で、悔むぞ。                              大 井 先生はむやみに、彼を重んじてゐるが、彼のこゝろは疾ツくに先    生を離れてゐる。先生、何故彼は洗心洞の塾頭を受けませんか。彼    は足を洗つて大塩塾を去るつもりでゐる。 平八郎 宇津木が塾を去る――? (大井を見詰めしが、思ひ返して吉五    郎に)吉五郎、おれが斯く時事に熱中するを見て、自分の善行を急    ぐと云ふ者があるかも知れない。老荘かぶれの宇津木などは、おれ       へんべき  にく              やぶ    の性の偏僻を疾んで、惻隠の心も偏すれば民を傷り身を現するもの    ありと……云ふかも知れない。然しおれは、それは云ふ者の冷淡だ    と思ふ。われは食つて生き、彼は食はずに死すとの事実を、おれは    どうしても自箇分外のことにしては見られない。人は窮民が路上に                      しかばね    餓死すると云ふが、おれは一人づつその死体がわがこゝろの中に斃    れて、怨みをもつておれの顔を見詰めてゐるやうにさへ思ふ時があ    る。恐らくこの性質は、おれ一生の負担なのだらう。(嘆息) 大 井 (突如として、笑ふ)はゝはゝゝ。鍋の中の湯を煮れば湯気にな    る。その湯気を外に漏らせば、鍋の湯は次第に減じます。 平八郎 (不快さうに、大井を見て)それは何んだ。 大 井 宇津木の言葉です。先生を批評した言葉です。その鍋に蓋があれ    ば、湯気は露になつて又鍋に滴り下りる。即ち鍋の湯は永久に減ら    ないと云ふんです。先生は蓋のない鍋だ。はゝはゝゝ。 平八郎 (案外に怒らず、誰に云ふともなく穏かに)おれには中和の性を    蓄へず、喜怒の感情を容易に外に漏らすのを、宇津木は惜しんでく    れるのだらう。自分にも反省してゐる。然し同時に又おれに云はせ                いきどほ    れば、怒るべきに怒らず、憤るべきに憤らず、冷然としてわが身の                         ねいせい    みを守る人間が賤しめられてならない。彼等が寧静を説き中庸を云    ふのは、一身の利害から打算して、危険の地に身を近づけないのだ。                                     怒りを憎む輩に限つて、柔弱不振の徒が多い。彼等は徳性に口を藉      りて、わが心中の利己心を掩はうとするのだ。                           きやつ 大 井 その先生が、何故彼の陰柔をゆるして置きます。彼奴は狡猾だ。    大塩学の虚無太虚に口を藉りて、自己の卑劣怯懦をごまかしてゐる       しかのみ    んだ。而已ならず、われ/\が実学実行に勉めるのを、彼は絶えず    批判冷笑して嘲つてゐる。先生がこの凶作に対して斯く苦心するの    さへ、彼は始終侮蔑の眼をもつて見てゐる。あの超然と、高くとま                  ひとみ    つて、悟り顔に人を見る眼の、眸の底の冷たさを見るがいゝ。彼は    学風の破壊者だ。われ/\は団結して彼の塾頭たるを拒みます。

   


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