この時、中の間の奥にてドツと賑やかに笑ふ女どもの声、聞える。
しづ
平八郎、屹ツとその方に耳を聳てしが、やがて徐かに云ふ。
きん
平八郎 論語にも、均なれば貧しきものなく、和なれば寡きものなし、と
云つてゐる。今日の危険は、第一上下貧富の懸隔にあるのだ。上を
そ あはれ
殺いで下を恤む、何よりの急務だ。吉五郎、お前は身分柄にも似合
ほ ん
はず、仮名つきの経書も少しは読んだのだ。お前が先に立つて、そ
のやうな自暴自棄の言葉を発しては相済むまい。広く人の為め国の
ために考へて、世間の一悪を去ること、農夫の務めて雑草を去るご
う
とくしなければならない。疲れてはいけないぞ。倦んではならない
か くちつゝ
ぞ。獣窮すれば即ち齧み、鳥窮すれば則ち啄く、民窮すれば則ち騒
乱のほかはないのだ。
吉五郎 何、その心配はござりませぬ。(冷笑)人間はみなわが世に馴れ
て居ます。
やぶ
平八郎 足寒ければ心をそこなひ、人怨むれば国を傷ると云ふ。おれは、
何時その時が来ないとも限らぬと思ふ。鳴呼、このまゝには済むま
い、このまゝには済まないと思ふ……。(額に手を加へて、独語の
やうに呟く)
吉五郎 はゝはゝゝ。(飲む)
美吉屋の妻おつね、五十歳、晴れの産衣を飾りし嬰児弓太郎を前帯
うつぼ
に抱きて来る。美吉屋は靭油掛町の手拭仕入業にて塩田氏、大塩家
の遠き姻戚にあたる。おつねは紋服。平八郎の妾おゆう、これも紋
服にて中の間の入口に立つ。養女おみね、おいく、下女など賑やか
に見送る。
わ こ
おつね それではおぢい様、和子は初めの宮詣でに行つて参じます。(嬰
児を、平八郎の前にかゞませ)この愛くるしい晴れ姿を、どうか祝
うて下さりませ。
平八郎 (弓太郎を見ず、おゆうの目を見詰めつゝ)この刻限に――もは
や日暮れに近い。
おつね 祝ひの日は、先に延ばしてはなりませぬ。それに天満の天神さま
なら、つい目の先でござります。
平八郎 (苦々しげな目を放して)女どもに委せた、どうでも好い。
おつね、嬰児に一礼させて去る。内玄関の方に賑やかなる女どもの
笑ひ声溢れ、やがて火打ち石の音など聞える。
賄方三平、食堂の用意を終りて、戸口に出で、食時の拍子木を鳴す
らす。
大 井 (眠りかけし目をひらき、胡坐を組み)宇津木の処分はどうなさ
る。僕は今日、破門を覚悟で飲んだんだ。彼は先生のために、心中
の賊だ。
平八郎 (睨み、舌打ちして)後で、悔むぞ。
と
大 井 先生はむやみに、彼を重んじてゐるが、彼のこゝろは疾ツくに先
生を離れてゐる。先生、何故彼は洗心洞の塾頭を受けませんか。彼
は足を洗つて大塩塾を去るつもりでゐる。
平八郎 宇津木が塾を去る――? (大井を見詰めしが、思ひ返して吉五
郎に)吉五郎、おれが斯く時事に熱中するを見て、自分の善行を急
ぐと云ふ者があるかも知れない。老荘かぶれの宇津木などは、おれ
へんべき にく やぶ
の性の偏僻を疾んで、惻隠の心も偏すれば民を傷り身を現するもの
ありと……云ふかも知れない。然しおれは、それは云ふ者の冷淡だ
と思ふ。われは食つて生き、彼は食はずに死すとの事実を、おれは
どうしても自箇分外のことにしては見られない。人は窮民が路上に
しかばね
餓死すると云ふが、おれは一人づつその死体がわがこゝろの中に斃
れて、怨みをもつておれの顔を見詰めてゐるやうにさへ思ふ時があ
る。恐らくこの性質は、おれ一生の負担なのだらう。(嘆息)
大 井 (突如として、笑ふ)はゝはゝゝ。鍋の中の湯を煮れば湯気にな
る。その湯気を外に漏らせば、鍋の湯は次第に減じます。
平八郎 (不快さうに、大井を見て)それは何んだ。
大 井 宇津木の言葉です。先生を批評した言葉です。その鍋に蓋があれ
ば、湯気は露になつて又鍋に滴り下りる。即ち鍋の湯は永久に減ら
ないと云ふんです。先生は蓋のない鍋だ。はゝはゝゝ。
平八郎 (案外に怒らず、誰に云ふともなく穏かに)おれには中和の性を
蓄へず、喜怒の感情を容易に外に漏らすのを、宇津木は惜しんでく
れるのだらう。自分にも反省してゐる。然し同時に又おれに云はせ
いきどほ
れば、怒るべきに怒らず、憤るべきに憤らず、冷然としてわが身の
ねいせい
みを守る人間が賤しめられてならない。彼等が寧静を説き中庸を云
ふのは、一身の利害から打算して、危険の地に身を近づけないのだ。
か
怒りを憎む輩に限つて、柔弱不振の徒が多い。彼等は徳性に口を藉
りて、わが心中の利己心を掩はうとするのだ。
きやつ
大 井 その先生が、何故彼の陰柔をゆるして置きます。彼奴は狡猾だ。
大塩学の虚無太虚に口を藉りて、自己の卑劣怯懦をごまかしてゐる
しかのみ
んだ。而已ならず、われ/\が実学実行に勉めるのを、彼は絶えず
批判冷笑して嘲つてゐる。先生がこの凶作に対して斯く苦心するの
さへ、彼は始終侮蔑の眼をもつて見てゐる。あの超然と、高くとま
ひとみ
つて、悟り顔に人を見る眼の、眸の底の冷たさを見るがいゝ。彼は
学風の破壊者だ。われ/\は団結して彼の塾頭たるを拒みます。
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