Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.8.18

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その23

真山青果(1878-1948)

『真山青果全集 第4巻』 大日本雄弁会講談社 1941 収録

◇禁転載◇

第三幕 (4)

管理人註
  

   旧塾生安田国書、河合八十次郎、吉見英太郎、其の他、この間に一    二人づつ食堂に入り来り、銘々おのが膳に坐りて手盛りにて食事す。    無言。    吉五郎、自ら水を汲み来りて、自分の膳具など洗ひて、帰り支度を    なす。 平八郎 (不図、咄嗟の思案、座を進めて)吉五郎! 吉五郎 は。(見上げる) 平八郎 お前さき程、人は人を救ひ得ないやうに云つたな。 吉五郎 金持の手からのこぼれ米など、芸もない話と思ひますよ。(不興    気に答へて、膳具を土間の棚に納める) 平八郎 金持にかゝはることではない。人が人を救ひ得られぬかの問題だ。    俺は全国の窮民をも、残りなく救ひ得る仕法もないではないと思ふ。    (次第に眉をかゞやかせ、歓ばしげに)人間あつまつてこの世間を    つくる以上、人が人を救ひ得ない筈はない、と思ふ。天地同体の仁    があれば、一人と雖も無辜の生民を餓死させる筈はないのだ。 吉五郎 さやうでどざりますなア……。(暮迫る外の光を眺めつゝ、草鞋    の紐など結ぶ) 平八郎 (一点を凝視して、沈思しつゝ)おれは余りに重く、金を見た。    金が人を救ふと考へたが……、然うではない。人間の誠!(拳にて    膝を打ち)これが人間を救ふのだ。                   ひ と さ ま 吉五郎 貧乏人に生れたも因果、常住他人様に救はれねばなりませぬか。    はゝはゝゝ。 平八郎 何? 吉五郎 どれ、暮れて来た。それでは御馳走だちに致します。    吉五郎、帰り去る。大井正一郎、この前より柱に凭れてうつらうつ    らと眠る。    平八郎、両の拳に落着きなくわが膝を叩いて、次第に具体化する思          たの    案に微笑し、恰しむ。    庄司儀左衛門、手足を洗ひ仕事着を脱ぎつゝ入り来る。用事ありげ    に平八郎の方を見て躊躇し、やがて力なく食堂に入る。    暮色次第に近づく。この間に食事を終りし塾生等、一人づつ立ち去    る。 大 井 (目を覚まして)先生、わたくしどもの訴へはどうなります。     うる 平八郎 煩さい、考へてゐるのだ。        ぎ くんし 大 井 彼は偽君子だ。宇津木を塾頭に仰ぐほどなら、旧塾の者一統同盟    して廃学だ。 平八郎 誰かゐないか。この気違ひを通れて行け。(顔を顰めて立ち上る) 大 井 (畳を叩いて)先生。 平八郎 煩さい。あつちへ行つてくれ。(沈思しつゝ中の間の方へ歩む) 大 井 (その後を追うて)先生! 平八郎 馬鹿者。邪魔をするのか。      大 井 好し、頼まない! 宇津木に直談判だ!    大井正一郎、反抗的に叫んで出て行かんとするを、食堂にありし安    田図書、塾生、三平など走り来りて、喚き狂ふ大井を無理に食堂へ    連れ込む。    平八郎、縁側の柱にもたれ、土を見詰めて考ふる。 大 井 (一同を睨めて)皆、覚えて置けよ。おれは一度人を斬つた男な    のだ。人を斬つたんだぞ。えゝ……勝手にしろ!    大井、自暴自棄に板の間に倒れ、大の字に臥る。    平八郎、何か心に頷き、急に小窓を開きて、外方に叫ぶ。 平八郎 吉五はもう帰つたのか。吉五郎……吉五郎。    吉五郎、中戸口より顔を出す。 吉五郎 旦那さま――。                     くわつぜん 平八郎 (歓ばしげに)吉五郎、おれはいま豁然として心の視野が開けた    やうだ。今に見ろ、必ず見せるぞ。はゝはゝゝ。金持も頼まない、    なんびと    何人も頼まない。人はその誠をもつて、隣人の難苦を救ひ得るもの    だと思ふ。 吉五郎 その事でござりまするか、どうか、宜しう御配慮を願ひます。    (冷やかに答へて去らんとす) 平八郎 吉五郎。 吉五郎 帰りが遠うござります。御免下されませ。 平八郎 (顔を上げ、急に)吉五、お前の居村には難渋人が多いだらう。 吉五郎 米がこの値段いたします。当節食ひかねる方が、威張つて表を歩    けます。はゝはゝゝ。 平八郎 待て。(小箪笥より金包みを出し)中斎の寸志だ。村中の者に、    残りなく分配してくれ。(と投げ出す) 吉五郎 (金包みを受け取り)二十五両包みでござりますか。 平八郎 自然出火などあつて、天満筋に煙りの見える時は、一村残らず大    塩の屋敷へ駈け付けてくれるやうに頼む。 吉五郎 ほう……。(怪訝さうに平八郎と金を見較べて)旦那さまはそれ    程まで……窮民等の暴動を、恐れてどざらツしやりますか。 平八郎 おれはお前達より遠いところを見てゐる。盗賊はその主を憎み、    民衆はその上を憎む……このまゝぢや済まぬ。このまゝでは済まな    いぞ。 吉五郎 さやうでござりますかなア……。頂いて帰ります。    吉五郎、一礼して不審さうに去る。平八郎、また土を見詰める。

   


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