平八郎 (少しく目を伏せつゝ)お前とおれとの交際はもはや二十年近い。
師弟の関係と云ふより、おれは旧い親友として君を見てゐる。君は
謹しみ深く身をまもつて、他の者のやうに容易に僕の心理中に入つ
て来ないが、然し始終おれの側を少しく離れて立ち、深切に……お
なんびと
れのこゝろを見詰めてゐてくれるのほ、好うく知つてゐる。何人の
忠告をも聞かないおれが、時に君が物憂はしく俯向くのを見て……
幾度自分に反省を加へたか知れない。(静かに云ふ)
庄 司 恐れ入つたことでござります。
平八郎 貴公に頼みと云ふのは、やはり目下の救民策だ。
庄 司 は?
平八郎 庄司、お前は又かと思ふだらう。然し、おれはどうしてもそれを
がしふ
捨てられない。跡部に建言を容れられないため、我執を貫くと云ふ
のではない。如何に考へても俺には、天地に化育されたる同じ人間
が、おれは生き、彼は生きられぬと云ふ不合理を信ずることが出来
ない。おれは人々と共に生きたい、人間全体と共に生きたいと思ふ
のだ。それには仕法がある。人間全体が、共に生きて共に救はるべ
き、立派な方法があると思ふのだ。それには君等の力をかりて、一
つの同盟を結ばなければならないのだ。
庄 司 先づ、お考へを仰しやつて下さい。
平八郎 おれは今まで、小数の金持権力者によつて、多数の難民を救はう
としたが、これが間違ひだ。人間は平等に、一人が一人を救ふ義務
がある、これが根本の精髄だつたのだ。人はたゞ一人づつ、その貧
しき隣人を救へばよいのだ。世に貧しき者が百万あれば、その隣に
百万の食ひ余る人がなければならない。おのが力を持つて、その一
人づつの窮乏を救へば、天下に飢寒の憂ひはない筈だ。一人が一人
を救ふこの簡単至明なる道理のうちに、初めて人道が行はれるのだ。
ごれう
庄司、おれは今日初めてこの真理に悟了したのだ。(食堂の物音に
耳を聳て)誰だ、誰かゐるのか。
宇津木 先生、わたくしでございます。
宇津木、食事を終りて静かに勝手口を通りかゝる。
平八郎 あ、貴公か――。(不快さうに顔を曇らす)
宇津木 いづれ先生に御話し致したいと思ひますが……又の機会に いた
しませう。(微笑して去らんとす)
平八郎 田舎へ帰つて、静かに瞑想したいと云ふ、その話か。
宇津木 それもございます。
へいふう
平八郎 洗心洞の弊風に耐へられなくなつたと云ふのか。
宇津木 わたくしは元来虚弱に生れて、煩雑なる都会の生活に適当しない
と思ひます。
平八郎 さうか、考へては見よう。然し、君は、僕が昨今しきりに事務に
かくき
熱中するのを見て、たゞ一旦の客気、情慾に駆られてゐると見るの
ではないか。
宇津木 決して然うは思ひません。先生には先生の熱情があります。その
熱情に追従して行けない自分の腑甲斐なさを、わたくしは始終こゝ
ろに慙ぢて居ります。
平八郎 君は悧巧だ。明哲にして身を保つの人だらう。
宇津木 ――?
平八郎 (独語のやうに)然うか。君だけは僕を知つてくれると思つてゐ
たのだ……。
この時、格子戸の開く音して、宮詣りより帰り来りし女どもの笑声
内玄関に溢れて聞ゆ。
宇津木 先生、いづれ又……お目にかゝつて申し上げます。
宇津木、門弟岡田を引き連れて去る。平八郎、固く唇を噛んでその
後ろ姿を見送る。
おゆう、一同と帰り来る。天満みやげの風車、鯛釣りなどの玩具を
携ふ。
おゆう (膝を突きて)たゞいま戻りました。和子も機嫌よう、お宮詣り
を済ましました。
平八郎 眠つたのか。(覗き見る)
おゆう 町の灯を初めて見て、それは嬉しさうでござりました。
平八郎 そして、美吉屋の内儀は。
うつぼ
おゆう 夜が深けるとまた途中が物騒になるとて、お宮からすぐに靭に帰
られました。
平八郎 (思はず嬰児の頼を突いて)おゝ笑つた。
おゆう うぶすな様にあやされてゐるのでござりませう。ちよツと抱いて
御覧なされ、また急に重くなりました。(懐中より神籤を出して)
お神籤も八十五番の大吉でござりました。
平八郎 (庄司の態度に気がつき、少し顔を顰めて)炬燵がある筈だ。
女ども一同、去る。
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