Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.8.21

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その26

真山青果(1878-1948)

『真山青果全集 第4巻』 大日本雄弁会講談社 1941 収録

◇禁転載◇

第三幕 (7)

管理人註
  

   その間庄司は俯向きて、女どもの方も見ぬやうに努めゐる。    詩吟の声、微かに新塾の方より聞え来る。 庄 司 (やうやく顔を上げて)宇津木兄は近ごろ憔悴して見えますが……。 平八郎 お前にも然う見えるか。然し……彼れには、何も苦しむことはな                 いと思ふ。その迹を践まず、亦室に入らず……彼は生れながらにし    て善人の道を得た男なのだ。(吟声を聞きて)宇津木の声のやうだ    な。近頃毎晩吟声を発するが、声に悲愴の調を帯びて……妙に人に    迫るものがある。(と聞く)                     庄 司 (微声に口吟して)知者は惑はず仁者は憂へず、君胡んぞ戚々と       ふたつ    して眉雙ながら愁ふ……。陽明先生の詩のやうでございます。                ふうかん 平八郎 うむ、啾々吟だ。おれを諷諌してゐるのだ。(聞く)     月光、窓に明るし。吟声、なほ続く。                 すつ     「之を用ゆれば則ち行ひ、舎れば即ち休む     此の身浩蕩、虚舟を浮ぶ           かゝ     丈夫落々、天地を掀ぐ。     豈顧みて束縛、窮囚の如くならん     …………     …………」    河合八十次郎、中戸を潜りて入り釆る。 八 十 先生、平山兄が附き添つて鴻ノ他の番頭と云ふ人が両名見えまし    た。密々の御用と申されました。 平八郎 鴻ノ他の番頭? 平山が附き添つて来た? 果して破談に来たな。    (唇を噛んで立ちしが、考へて)会はぬと云へ。 八 十 はい。然し…… 平八郎 鴻ノ地は大塩を売つたのだ。会はない! 庄 司 (心配さうに)先生、わたくしがその者に面会いたして、然るべ    く取り計つて置きませう。御奉行のお声掛りとあれば、粗末の取扱    ひもなりますまい。如何でござりませうか。 平八郎 貴公の料簡次第だ。おれはもう何事も云ふまい!    庄司儀左衛門、八十次郎、去る。平八郎、瞑目して詩吟を聞き、苦    悩に耐へざるものゝ如く、そこにある水汲み下駄を穿き、戸外に出    んとして、食堂に酔臥せる大井正一郎を見る。 平八郎 大井、大井。(下駄を踏み鳴らして)正一郎。 大 井 (むくと起きて、目を擦る)は。 平八郎 大声に詩吟してくれ、あの声が、厭やなのだ。 大 井 は? 平八郎 詩は何んでもいゝのだ。大声に、あの宇津木の吟声を圧迫してく    れ。聞きたくない、聞きたくない――。    平八郎、倉皇として追はるゝやうに走り云る。大井、やゝ狼狽しつゝ    また走り去る。間もなく旧塾の方に、二三人声を合せて詩吟の声聞    える。詩はいづれも平八郎の旧作なり。     「新衣着し得て新年を祝す     羹餅味濃かにして咽を下すに易し     忽ち思ふ城中菜色多し     一身の温飽天に愧づ」     「一身の温飽天に愧づ            隠者寧んぞ救全の心なからんや     …………     …………」    月光、障子に冴ゆる。舞台やゝ長き沈黙。    平八郎、面色を変じ、脣の色も失うて、下駄を鳴らしつゝガタガタ    と駈け戻り来る。呼吸もせはしく、食堂の前なる手桶より柄杓にて    水を飲む。

   


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