その間庄司は俯向きて、女どもの方も見ぬやうに努めゐる。
詩吟の声、微かに新塾の方より聞え来る。
庄 司 (やうやく顔を上げて)宇津木兄は近ごろ憔悴して見えますが……。
平八郎 お前にも然う見えるか。然し……彼れには、何も苦しむことはな
ふ
いと思ふ。その迹を践まず、亦室に入らず……彼は生れながらにし
て善人の道を得た男なのだ。(吟声を聞きて)宇津木の声のやうだ
な。近頃毎晩吟声を発するが、声に悲愴の調を帯びて……妙に人に
迫るものがある。(と聞く)
な
庄 司 (微声に口吟して)知者は惑はず仁者は憂へず、君胡んぞ戚々と
ふたつ
して眉雙ながら愁ふ……。陽明先生の詩のやうでございます。
ふうかん
平八郎 うむ、啾々吟だ。おれを諷諌してゐるのだ。(聞く)
月光、窓に明るし。吟声、なほ続く。
すつ
「之を用ゆれば則ち行ひ、舎れば即ち休む
此の身浩蕩、虚舟を浮ぶ
かゝ
丈夫落々、天地を掀ぐ。
豈顧みて束縛、窮囚の如くならん
…………
…………」
河合八十次郎、中戸を潜りて入り釆る。
八 十 先生、平山兄が附き添つて鴻ノ他の番頭と云ふ人が両名見えまし
た。密々の御用と申されました。
平八郎 鴻ノ他の番頭? 平山が附き添つて来た? 果して破談に来たな。
(唇を噛んで立ちしが、考へて)会はぬと云へ。
八 十 はい。然し……
平八郎 鴻ノ地は大塩を売つたのだ。会はない!
庄 司 (心配さうに)先生、わたくしがその者に面会いたして、然るべ
く取り計つて置きませう。御奉行のお声掛りとあれば、粗末の取扱
ひもなりますまい。如何でござりませうか。
平八郎 貴公の料簡次第だ。おれはもう何事も云ふまい!
庄司儀左衛門、八十次郎、去る。平八郎、瞑目して詩吟を聞き、苦
悩に耐へざるものゝ如く、そこにある水汲み下駄を穿き、戸外に出
んとして、食堂に酔臥せる大井正一郎を見る。
平八郎 大井、大井。(下駄を踏み鳴らして)正一郎。
大 井 (むくと起きて、目を擦る)は。
平八郎 大声に詩吟してくれ、あの声が、厭やなのだ。
大 井 は?
平八郎 詩は何んでもいゝのだ。大声に、あの宇津木の吟声を圧迫してく
れ。聞きたくない、聞きたくない――。
平八郎、倉皇として追はるゝやうに走り云る。大井、やゝ狼狽しつゝ
また走り去る。間もなく旧塾の方に、二三人声を合せて詩吟の声聞
える。詩はいづれも平八郎の旧作なり。
「新衣着し得て新年を祝す
羹餅味濃かにして咽を下すに易し
忽ち思ふ城中菜色多し
一身の温飽天に愧づ」
「一身の温飽天に愧づ
な
隠者寧んぞ救全の心なからんや
…………
…………」
月光、障子に冴ゆる。舞台やゝ長き沈黙。
平八郎、面色を変じ、脣の色も失うて、下駄を鳴らしつゝガタガタ
と駈け戻り来る。呼吸もせはしく、食堂の前なる手桶より柄杓にて
水を飲む。
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