Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.8.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その27

真山青果(1878-1948)

『真山青果全集 第4巻』 大日本雄弁会講談社 1941 収録

◇禁転載◇

第三幕 (8)

管理人註
  

平八郎 (勝手口に立ち、大声)誰かゐないか、誰か……八十、三平、宇    津木をこゝへ連れて来い。    おゆう、その声に驚きて、畳みゐたる嬰見の産衣を持ちたるまゝ走    り来る。 おゆう 旦那さま、何か起りましたか、どうなされました。              平八郎 うむ……。(息を嚥み)おれは恐ろしいものを見た。捨児を見た。 おゆう え、捨児!                     まなじり 平八郎 矩之允を呼べ。あの恐ろしい憤怨の眥を見せてやる。日頃おれの    騒ぐのが軽動か、彼が超然として冷視するのが酷薄か、事実の上に    知らしてやる。三平、三平。 おゆう そして捨児は、何処にあつたのでございます。 平八郎 淀川だ。(指差して)木村堤の土手下だ。子も、捨てた親もまだ                          きべん    居る。彼の太虚説は彼の賤しき利己心をまぎらす詭弁に過ぎない。    この恐ろしき事実を見せて、彼とて他人の病を疾むことの出来ない    卑怯さを愧ぢ入らせるのだ。宇津木を呼べ。 おゆう (何か思ひさだめて)旦那さま、今宵は弓太郎のために、お宮参    りの祝ひ日でございます。(静かに云ふ) 平八郎 それが何んだ。                           なだ おゆう あの児の一生のよろこびに、どうかおこゝろをお宥め下さいまし、    近頃は御酒の過ぎるせゐか、些とお束が……急くやうに思はれます。 平八郎 えゝ、宇津木を呼べと云ふのだ。 おゆう 御自分にはお気がつかれますまいが、夜お寝みになつても、手足    の指先が絶えず痙攣してゐられます。五年前の御大病を思ひ合はせ    て、家内の者はみな心を痛めて居ります。 平八郎 えゝ、頼まない、自分で呼んで来る。    平八郎、下駄に足をかくる時、庄司儀左衛門、慌しく入り来る。 庄 司 先生、大声をなされて何事でござります。 平八郎 儀左、かねておれの憂へてゐた日が来たぞ。おれは面白づくに空    騒ぎしたのではない。おれはいま淀川堤で、恐ろしい捨児の現場を    見て来たのだ。 庄 司 (ギヨツとして)捨児でござりますか。 平八郎 三十四五の女だ。夜目にはさまで見すぼらしい姿とも思はなかつ    た。木村堤の土手下にうづくまつて、こちらの気配を窺つてゐるや    うにも思つた。俺は考へ事しながら行き過ぎた。赤児の泣き声が聞    える。振り返つて見ると、女もそこから二三間はなれて、月の下に    立つてゐた。思はず声掛けて女を叱らうとしたが、女は遁げも騒ぎ    もしない。蒼白い額に月の光をうけて、目の底から見詰めるやうに、    ぢいツとおれの顔を睨んでゐたのだ。おれは戦慄して足が進まなか                  ばうぜん    つた。そこに突ツ立つたまゝ、惘然と見てゐるより外はなかつた。    女は懐ろ手をしてゐたのだらう、肩から垂れる両の袂をブラリ/\    と振りながら、足も早めず、見返りもせず、煙るやうな河霧のなか    を、静かに小さく歩み去つたのだ。儀左衛門、これでもまだ何か宇    津木に詭弁があるか。端的のこの実例は、何を語り何を示してゐる    と思ふ。民衆の怨嗟は何処に向ひ、またいづくに漏れようとしてゐ    る。それでもなほお前達はおれに、世間を見るな、忘れろと云ひ得    るか。おれはその判断を宇津木に聞きたいのだ。    おゆう、庄司、俯向いて無言。

   


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