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平八郎 (間を置きて)おれは何故に、足をつまだつやうな思ひして、彼
の帰塾を待つたのだ。純真なる自分、消磨されない自分を、彼のう
ちに見たかつた。彼はおれの学説に生れて、おれの思想にそだてら
れた唯一人の子供なのだ。然し三年の遊歴から帰つて来た彼は、最
早やおれの血統ではなくなつてゐた。却つておれを苦しめおれを悩
ます……心中の賊になつてゐた。おれはあいつの冷やかな眼を見、
冷やかな声を聞き、冷やかに動ぜぬ姿を見る時、不思議にもわがこゝ
ろの平衡を失つて、躊躇し、逡巡し、狐疑して意気の沮喪するのを
感ずるやうになつた。深く黒い彼の批判の目は、右に行けば右に立
ち、左に行けばわが左にふさがつて、悲しげにおれを見詰める。お
れは徒らに彼のために気力を消耗されて……疲れて、苦しくなる。
(両の挙を膝に置き、項垂れる。間。顔を上げ)然し、彼はわが生
んだ子だ。親としてその儘には棄て置けない。彼の迷妄を醒まし、
彼の誤謬を打破するのは、師としておれの責任だと思ふ。庄司、宇
津木をこゝへ呼ん来てくれ。静かに話して聞かせたい。
庄 司 はい……。
儀左衛門、おゆうと顔見合はせ、躊躇して立たず。
平八郎 (述懐らしく)なるほど彼は、おれの健康を憂へてくれる。また、
けいかく
圭角の多いおれの性格を悲しんでくれる。然し一度でも彼は、おれ
のこゝろの悩みに触れて来たことはないのだ。彼の云ふところはい
つも……一身の安危、渡世の損得に過ぎない。彼の俗劣なる心匠は
この一事でも知れよう。彼には禍福栄辱のほかに……人間の悩みを
知らないのだ。おれは彼を卑しむ、鄙しむ。(庄司を見て)儀左衛
門、おれは彼に対する意地にも、この現状を傍観してゐられない。
彼の批判を恐れ憚つて、善事を行ふに躊躇するのは、われながら萎
縮してゐる。俺は彼が屈し伏するまで闘つて、彼の壊しき利己心を
挫いてやりたい。彼を俺の前に脆かせ、恥づるところを知らしむる
迄は、飽くまで初一念を貫かずにゐない。貧民それ自身よりも、俺
は彼を倒すために蹶起するのだ。それが唯一つ、彼のなかに葬られ
たる自分を蘇らせ、本来のわれを彼のなかに見出す方法なのだ。儀
左衛門、宇津木を呼べ、呼んで来てくれ。
儀左衛門、顔をも上げず沈思す。新塾の吟声、また遠く微かに聞え
来る。
おゆう、何か思ひ定めて、少しく座を進める。
平八郎 (反射性に鋭く、おゆうを見て)ゆう、何か云ひたいのか、おれ
に何か云ひ出したいのか。
おゆう ……? (顫へる眸にて、悲しげに平八郎を見る)
平八郎 (峻しく急きて)おれのこゝろの悩みとは、お前の思ふことでは
ない。
おゆう、沈黙して俯向く。
庄 司 (心配さうに声を顫はして)先生、さき程のお言葉にも、何か同
盟を結んで窮民救済をなさるやうに承りましたが、それでは鴻ノ池
の話はやぶれても、ほかにも御仕法があるのでございまするか。
平八郎 外から来る跡部の邪魔は我慢もする。内からまどはす宇津木の奸
邪は忌むべきだ。おれは決して目的を棄てない。
庄 司 同盟を結ぶと仰せられますると……?
平八郎 まことに気の毒だが、貴公の禄米を向ふ二十箇年借用したい。
庄 司 (驚きて)何んでござります。
そ あはれ
平八郎 おれは今まで、上を殺いで下を恤むこゝろでゐた。跡部に迫り、
鴻ノ他に頼んだもそのためだが、それは然し誤つてゐた。同じ人間
と生れて、救ふ救はれるの言葉はない筈だ。食ふ者は食はざる者と
同体にならなければならぬ。食物は人類全体のものだ。一人がそれ
を私して、その余りを他人に与ふると云ふ法はない。一人食に飽け
ば万人も共に飽き、一人饑ゆれば万人共に饑ゆるのが自然だ、天然
だ。その天理をつくして初めて万民を塗炭の苦しみより救ひ得るの
だ。
庄 司 はい。
平八郎 (顔色次第に晴れやかに)それには、権力者を待つてはいけない。
金持を頼んではならない。世に最も乏しき配分を受ける者が先づ立
つて、その隣人と饑を共にするの模範を示さなければならない。お
れの禄高二百石、お前の俸米は十石三人扶持、それを合せただけで
ともしび
も事は足りる。灯火はかすかなれども、やがて天を焼くの火だ。両
人二十箇年の俸給を抵当にして金を借りれぼ、千両近い金を得るだ
らう。それを難渋民に分配するのだ。また借入金の元金利息は、銘々
二十箇年の倹約をもつて貸方に入金するのだ。如何に思案しても、
最早やこの上の方法はないと思ふ。儀左衛門、決して権奇の策では
ないぞ、これが人間の常道なのだ。儀左衛門、無理な頼みのやうだ
が、好く考へて見てくれ。この際の覚悟は、たゞ共に饑ゑると云ふ
一事にあるのだ。
庄 司 はい……。
平八郎 お前とおれとが先づ起てば、瀬田、小泉、その他の門弟もやがて
奮起するに相違ない。それに、東方与カが全部一致すれば、西方で
もその儘にはゐられない。奉行も動き、城代も動けば、八万、十万
の金穀は忽ちにして積み得られる訳だ。どうだ。儀左衛門、どう思
ふ。最初、灯火はかすかなるほど好いのだぞ。大勢の門弟に謀らず
に、貴公一人に相談するのはそのためだ。
庄 司 (顔の汗を拭きつゝ)はい……。
平八郎 同意なのか、不同意なのか。明らかに云つてくれ。
庄 司 は……。
おゆう (見かねて、進み出て)然し、旦那さま、その御話はいづれ格之
助にも……
平八郎 何?
おゆう 兎にかく格之助は大塩家の当主、一応御協議なされずばなります
まいと思ひます。(吃ツとして云ふ)
平八郎 もう好い。頼まない。(不快さうに立ち上り)おゆう、八十を走
らして河内屋喜兵衛を呼んでくれ。
おゆう は?
平八郎 蔵書をみな売り払つて施行金にするのだ。蔵書はおれのものだ。
なんびと
何人の故障もない筈だ。おれはおれの全部を空しくして、隣人と共
に餓ゆるのだ。直ぐ河内屋を呼びにやれ。
平八郎、奥の間に去る。
おゆう、儀左衛門、顔を見合はせてほツと大息する。
――(幕)――
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圭角
性格や言動に
かどがあって、
円満でないこと
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