Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.8.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その28

真山青果(1878-1948)

『真山青果全集 第4巻』 大日本雄弁会講談社 1941 収録

◇禁転載◇

第三幕 (9)

管理人註
  

平八郎 (間を置きて)おれは何故に、足をつまだつやうな思ひして、彼    の帰塾を待つたのだ。純真なる自分、消磨されない自分を、彼のう    ちに見たかつた。彼はおれの学説に生れて、おれの思想にそだてら    れた唯一人の子供なのだ。然し三年の遊歴から帰つて来た彼は、最    早やおれの血統ではなくなつてゐた。却つておれを苦しめおれを悩    ます……心中の賊になつてゐた。おれはあいつの冷やかな眼を見、    冷やかな声を聞き、冷やかに動ぜぬ姿を見る時、不思議にもわがこゝ    ろの平衡を失つて、躊躇し、逡巡し、狐疑して意気の沮喪するのを    感ずるやうになつた。深く黒い彼の批判の目は、右に行けば右に立    ち、左に行けばわが左にふさがつて、悲しげにおれを見詰める。お    れは徒らに彼のために気力を消耗されて……疲れて、苦しくなる。    (両の挙を膝に置き、項垂れる。間。顔を上げ)然し、彼はわが生    んだ子だ。親としてその儘には棄て置けない。彼の迷妄を醒まし、    彼の誤謬を打破するのは、師としておれの責任だと思ふ。庄司、宇    津木をこゝへ呼ん来てくれ。静かに話して聞かせたい。 庄 司 はい……。    儀左衛門、おゆうと顔見合はせ、躊躇して立たず。 平八郎 (述懐らしく)なるほど彼は、おれの健康を憂へてくれる。また、    けいかく    圭角の多いおれの性格を悲しんでくれる。然し一度でも彼は、おれ    のこゝろの悩みに触れて来たことはないのだ。彼の云ふところはい    つも……一身の安危、渡世の損得に過ぎない。彼の俗劣なる心匠は    この一事でも知れよう。彼には禍福栄辱のほかに……人間の悩みを    知らないのだ。おれは彼を卑しむ、鄙しむ。(庄司を見て)儀左衛    門、おれは彼に対する意地にも、この現状を傍観してゐられない。    彼の批判を恐れ憚つて、善事を行ふに躊躇するのは、われながら萎    縮してゐる。俺は彼が屈し伏するまで闘つて、彼の壊しき利己心を    挫いてやりたい。彼を俺の前に脆かせ、恥づるところを知らしむる    迄は、飽くまで初一念を貫かずにゐない。貧民それ自身よりも、俺    は彼を倒すために蹶起するのだ。それが唯一つ、彼のなかに葬られ    たる自分を蘇らせ、本来のわれを彼のなかに見出す方法なのだ。儀    左衛門、宇津木を呼べ、呼んで来てくれ。    儀左衛門、顔をも上げず沈思す。新塾の吟声、また遠く微かに聞え    来る。    おゆう、何か思ひ定めて、少しく座を進める。 平八郎 (反射性に鋭く、おゆうを見て)ゆう、何か云ひたいのか、おれ    に何か云ひ出したいのか。 おゆう ……? (顫へる眸にて、悲しげに平八郎を見る) 平八郎 (峻しく急きて)おれのこゝろの悩みとは、お前の思ふことでは    ない。    おゆう、沈黙して俯向く。 庄 司 (心配さうに声を顫はして)先生、さき程のお言葉にも、何か同    盟を結んで窮民救済をなさるやうに承りましたが、それでは鴻ノ池    の話はやぶれても、ほかにも御仕法があるのでございまするか。 平八郎 外から来る跡部の邪魔は我慢もする。内からまどはす宇津木の奸    邪は忌むべきだ。おれは決して目的を棄てない。 庄 司 同盟を結ぶと仰せられますると……? 平八郎 まことに気の毒だが、貴公の禄米を向ふ二十箇年借用したい。 庄 司 (驚きて)何んでござります。                  あはれ 平八郎 おれは今まで、上を殺いで下を恤むこゝろでゐた。跡部に迫り、    鴻ノ他に頼んだもそのためだが、それは然し誤つてゐた。同じ人間    と生れて、救ふ救はれるの言葉はない筈だ。食ふ者は食はざる者と    同体にならなければならぬ。食物は人類全体のものだ。一人がそれ    を私して、その余りを他人に与ふると云ふ法はない。一人食に飽け    ば万人も共に飽き、一人饑ゆれば万人共に饑ゆるのが自然だ、天然    だ。その天理をつくして初めて万民を塗炭の苦しみより救ひ得るの    だ。 庄 司 はい。 平八郎 (顔色次第に晴れやかに)それには、権力者を待つてはいけない。    金持を頼んではならない。世に最も乏しき配分を受ける者が先づ立    つて、その隣人と饑を共にするの模範を示さなければならない。お    れの禄高二百石、お前の俸米は十石三人扶持、それを合せただけで           ともしび    も事は足りる。灯火はかすかなれども、やがて天を焼くの火だ。両    人二十箇年の俸給を抵当にして金を借りれぼ、千両近い金を得るだ    らう。それを難渋民に分配するのだ。また借入金の元金利息は、銘々    二十箇年の倹約をもつて貸方に入金するのだ。如何に思案しても、    最早やこの上の方法はないと思ふ。儀左衛門、決して権奇の策では    ないぞ、これが人間の常道なのだ。儀左衛門、無理な頼みのやうだ    が、好く考へて見てくれ。この際の覚悟は、たゞ共に饑ゑると云ふ    一事にあるのだ。 庄 司 はい……。 平八郎 お前とおれとが先づ起てば、瀬田、小泉、その他の門弟もやがて    奮起するに相違ない。それに、東方与カが全部一致すれば、西方で    もその儘にはゐられない。奉行も動き、城代も動けば、八万、十万    の金穀は忽ちにして積み得られる訳だ。どうだ。儀左衛門、どう思    ふ。最初、灯火はかすかなるほど好いのだぞ。大勢の門弟に謀らず    に、貴公一人に相談するのはそのためだ。 庄 司 (顔の汗を拭きつゝ)はい……。 平八郎 同意なのか、不同意なのか。明らかに云つてくれ。 庄 司 は……。 おゆう (見かねて、進み出て)然し、旦那さま、その御話はいづれ格之    助にも…… 平八郎 何? おゆう 兎にかく格之助は大塩家の当主、一応御協議なされずばなります    まいと思ひます。(吃ツとして云ふ) 平八郎 もう好い。頼まない。(不快さうに立ち上り)おゆう、八十を走    らして河内屋喜兵衛を呼んでくれ。 おゆう は? 平八郎 蔵書をみな売り払つて施行金にするのだ。蔵書はおれのものだ。    なんびと    何人の故障もない筈だ。おれはおれの全部を空しくして、隣人と共    に餓ゆるのだ。直ぐ河内屋を呼びにやれ。    平八郎、奥の間に去る。    おゆう、儀左衛門、顔を見合はせてほツと大息する。                       ――(幕)――






































圭角
性格や言動に
かどがあって、
円満でないこと
 


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