Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.8.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その29

真山青果(1878-1948)

『真山青果全集 第4巻』 大日本雄弁会講談社 1941 収録

◇禁転載◇

第四幕 (1)

管理人註
  

   天保八年二月八日。前幕より一箇月の後。    洗心洞内、講礼堂。  講礼堂は講堂なり。平舞台。正面に植込の庭及び土蔵の一端を見る。講  堂は畳二十畳ほどの広間にて、下手平八郎の書斎に通じ、上手玄関に通  ず。床の間は正面上手寄りにあり、田能村竹田筆の王陽明の肖像を掛け、  香を焚く。講堂の右側の間には陽明が龍場諸生に示せる立志勧学改過  責善の四篇を掲げ、左側の壁上には呂新吾の学則十七條を掲げたり。四  方の壁はもと書物箱を堆く積み重ねありたるも、読書施行のため書籍全  部を売り払ひたる後なれば、壁にその痕跡を止めて、縦横に本箱の輪郭  を残せり。                       しとね  当日は洗心洞歳首開講の日なれば、中央正面に褥をしき見台を置き、論  語第二巻を載せたり。平八郎の講席なり。やゝ離れて大塩格之助、宇津                      むかひがは  木矩之允の席あり。見台ありて褥なし。その対側は塾生門弟の席なれば、  論語を十二三冊、銘々の座席に準じて畳の上に開きあり。    幕あく――。塾生十数名みなわが席を立ち中央に集りて、喧騒混雑    の態を極め、暫くは事態を明らかにするを得ず。大井正一郎、腕を    まくり足を踏んで「不埒者……おれが処罪する……許して置けない    ……偽君子」など絶叫して、混乱の内に躍り人らんとするを、渡辺    良左衛門その他二三の塾生にて引き止めゐる。岡田良之進は泣顔に    なり、ウロ/\と人々の間を駈け廻り「先生、先生、先生」と悲し    げに呼ぶ。瀬田済之助は庄司儀左街門と慌しく囁き合ひ、安田図書    は扼腕して怒り立つ。その他の者はたゞ騒擾混乱するのみ。これ実    は平八郎と矩之允が講書の質疑より次第に激論となり、遂に格闘と    なりても両方相下らず、怒罵激越を悔めて争ふなり。    初め平八郎矩之允の姿を見ず、諸生喧騒の間より互ひに怒声、断絶    的に漏れ来る。                     かは 平八郎 云ふな、必ず云ふな、卑怯に言葉を躱さないな。 宇津木 云ふとも、云ふ。今日こそ、何んでも云ふ。 平八郎 卑怯者、偽善者! 宇津木 …………。 平八郎 貴様、おれに反抗するか。おれに叛くか。 宇津木 師弟の礼を棄てゝ来たのはそちらだ。誰が、叛かせた。 平八郎 まだ云ふか、貴様――。 宇津木 仁に当つては師に譲らず、況んや師弟の礼は失つてゐる。 平八郎 偽君子、また聖賢の譜を口に飾るか――。    言語窮りて、格闘の音聞え、その度に立ち騒ぐ門弟等の位置は混乱    す。    格之助、急を聞きて慌てふためき、駈け来る。人々を掻き分けて争    論の間に入る。 格之助 お父上、どう遊ばしました。父上。(息を切らして取り支ふる) 平八郎 邪魔をするな。こいつ、懲しめてやる。 宇津木 うむ……、(苦しげに呻き)卑怯だ、暴力には屈しない。 格之助 お父上、手をお放し下さい。宇津木兄、逃げてくれ給へ。宇津木                      兄、危い、逃げて……。諸君も退いて、諸君、何を呆然として立つ    てゐるのだ。    塾生一同、左右に開く。平八郎と矩之允の姿、初めて見物の前にあ    り。平八郎は麻裃盛装、矩之允は紋服に袴。    平八郎は矩之允を組み伏せ、膝下に引き据ゑ、面色蒼白に変じ怒り    に声も顫ふ。矩之允、さすがに腕力にて抵抗せざれど、その表情憎    悪と憤激に燃えて、頭髪をみだし頬を畳に擦り付けられてゐる。格    之助、顛動して為す所なく、たゞ平八郎の腕に縋りつくのみ。 格之助 父上、外聞もいかゞです。お放し下さい。宇津木兄に不都合があ    れば、われ/\が制裁いたします。父上、どうか……貴方さまの御    恥辱になります。 平八郎 学問上の争ひだ。(格之助を睨み)宇津木、貴様はまだこれでも    その邪説を主張するか。飽くまでおれの講説に反対するのか。 宇津木 舌なほ有り、志また存すだ。 平八郎 うぬ……。    平八郎、嚇ツとして宇津木を畳に擦り付ける。宇津木、口を噤んで    その苦痛を忍ぶ。    瀬田、庄司、格之助、無理に両人を引き分くる。宇津木は起き上り    て衣紋のみだれたるを直しなどすれど、平八郎は捩ぢゆがみたる    のまゝ、宇津木を睨みつけ総身を顫はしてゐる。             ばいしよせぎやう 格之助 宇津木兄、手前は売書施行のことにつき、河内屋の番頭に応対し          いきさつ    てゐて、事の経緯は存じないが、全体どうしたことなのでございま                        も と    す。日ごろ温順な貴兄にも不似合な、何が原因で然うまで激昂なさ    れます。 宇津木 (強ひて微笑を含み)この破裂は恐らく免れがたき結果だつたで    せう。先生とわたくし――人間と人間との悲しき対立です。晩く早    く、来るべきものが来たのです。 格之助 然し、今日の争端は。 宇津木 論語子罕第九の章の講説が今日の原因と云はゞ云ふべきでせう。    然し、それは恐らく先生にも枝葉の問題であつて、根本の衝突はま    だ/\深いところにあります。人と人との間の憎み――然う云ふの    が適当かも知れません。 平八郎 (屹ツとして)宇津木、お前は憎みと云つたな。おれは君を憎み、    君はおれを憎む、その意味なのか。 宇津木 単に感情上の憎悪ぢやありません。人間には――本然の憎悪があ    ると思ふ。 平八郎 貴公明白に、それを断言し得るか。 宇津木 致します。 平八郎 おれを憎むと云つたな。 宇津木 あなたがわたしを憎む如く……。               なんびと 平八郎 異端者! その異説は何人に学び、何人を伝統するのだ。 宇津木 何人でもない。恐らくは貴方自身に与へられた観念に生み出され    たものと思ふ。わたくしは何人の子でもない。やはり大塩学の正統    だと思つてゐる。 平八郎 邪道奴、この――    平八郎、宇津木に躍りかゝらんとす、人々、その間に割つている。









(かみしも)
裃


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