Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.8.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その31

真山青果(1878-1948)

『真山青果全集 第4巻』 大日本雄弁会講談社 1941 収録

◇禁転載◇

第四幕 (3)

管理人註
  

瀬 田 宇津木兄、どうしたのだ。(執成すやうに屑を叩きて)それでは       ごんびん    まるで言便咎めに過ぎない。先生の趣意は、たゞ弟子として師匠に    対する子路の深切を説かれたのだ。 宇津木 いや、違ふ。それでは、臣なくして臣ありとなす、吾れ誰をか欺    かん、天を欺かんや、とまで切言されてゐる孔子の金言が意義を失    ふ。倫理上の大問題だ。 平八郎 宇津木、明らかに斯う云つたらどうだ。不徳義の大塩中斎には、    おれは、家臣の礼をとつて仕へるに忍びない、と。 宇津木 (同じく睨んで)あなたこそわたくしに然う云ふがいゝ。一切の    自分を棄てゝ、臣下のごとく、奴隷のごとくわが前に屈従せよと、    云ふがいゝ。 平八郎 わが教育した門弟は、師匠のものではないのか。 宇津木 自分のものだ。 平八郎 何――。    平八郎、思はず呻きて立ち上らんとす。格之助、支ゆる。                     宇津木 矩之允のごとき、君とするところ微なりと雖も、井伊掃部頭があ    る。何者と雖も、その他の支配は決して受けない。    平八郎、顫へつゝ睨む。悲憤の涙その瞼に溢れる。 宇津木 あなたは宇津木を、臆病利巧者になつて長崎から帰つて来た、と    云ふ。寧ろ僕は、勇気をもつて帰つたと云はれたい。僕が虚無説を    拡張して、一切を傍観し、無抵抗の態度をとるのを、あなたは臆病    のためと思ふのか。わたしは総ゆる権力を拒否するために、この冷                         ぬる    淡を保つてゐるのだ。あなたはわたしの言葉を温しとして、心に戦    ふ言葉を出せない.ものゝやうに云ふ。わたしは最も静かなる言葉    を発する時、常に最も心中に戦うてゐるのだ。僕に云はせると、あ                                 なたこそ臆病者だ。無類の怯懦者だ。あなたはわたしに撻たれたい    と云ふが、あなたはその鞭に堪へ得られる人ではない。    瀬田、庄司等、気をもみて制止せんとすれども、宇津木は興奮して    聞かず。蒼白になりて目には涙さへ湛ふる。    格之助、平八郎を退座せしめんと努むれども、平八郎は微かに首を    振るのみ、動かず。                     れいせいしつこ 宇津木 あなたは自著洗心洞剳記のなかに、諮コ疾呼して太虚の霊を説き、    永遠を説き、人生の不滅を説き、さかんに君子の陽徳剛性を主張し    てゐる。然しそれは寧ろあなたの、人間としての弱さと不安から来                しんぎんご    る溜息なのだ、懺悔録だ、呻吟語だ。あなたは病気にも弱く、性格    にも臆病者だ。あなたは始終肺病に抵抗して、酒を飲み寒威を冒す                            わづ    と云ふけれども、実は絶えず死の恐怖に苦しみつゝ、纔かに逆行に    よつてこゝろの不安を紛らしてゐるのだ。また、あなたは剳記のな                         だかつ    かに、名聞を悼み、富貴を悼み、栄達を憎んで蛇蝎のごとく厭うて    ゐるのは、その名聞に駆られやすき自分、富貴栄達に動かされやす                       ばいかく    い自分の弱さを恥ぢ恐れて、強ひて虚無の貝殻のなかに身を閉ぢよ    うとしてゐるのだ。あなたは善を急ぎ悔恨を急ぐ。みなその同じ弱    さから来てゐる。恐らくあなたほど過去の自分に執着する人はある    まい。わが行為の善悪がいつまでもこゝろに残つて、水牛のごとく          はんすう    絶えずそれを反芻してゐる人だ。天地は流転する。何故もう少し自    性を深め強めて、自己を他人として眺められないのです。善事もま    た人生の一過事、悪事もまた一過事、過去を過去として徒らに停滞              む げ    せぬところに、流通無碍の生命を見ると思ふ。    平八郎、何か云はんして能はず。寂しく口を噤む。             さば               べんぼく 宇津木 あなたは常に自ら審くと傲語しながら、何故に他人に鞭を待ち    ます。他人の鞭を待つのぢやない。実は他人の憫み他人の赦しを迫    つてゐるのだ。人によつて赦されようとする本来の弱さは洵に同情           か き                  たんらん    すべきだが、藩籬を超えて他人の心中まで侵入してくる貪婪さには、                    まさ    実に厭ふべきものがある。あなたは当に己れを慎まなければならな    い。人の熱に因つて生きようとするのは卑怯だ。    平八郎、やゝ項垂れる。一同、粛然として目を伏せる。    宇津木、涙を帯びて傷ましげに師匠の姿を見詰むる。 宇津木 (やゝ間を置きて)先生、あなたは御自分の憔悴に気がつかれま    せんか。わたしは長崎から帰つて、第一に貴方の衰へを見た。病気    も進んでゐますよ、こゝろも疲れてゐます。先生、御自身の過失を    悔悟なさるのはいゝ。然しさうあなたのやうに、間断なく自分を責     さいな    め苛んではお体をやぶりますよ。たとへ御自分の肉体でも、然うま    で苦しめるものではありません。あなたは悔まんがために悔み、悔      ぐわんろう    恨を玩弄してゐるやうにさへ見える。先生、あなたは物に拘泥し過    ぎる。わが体とて、赦す時には赦さなければなりません。    平八郎、無言。


(まこと)































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