瀬 田 宇津木兄、どうしたのだ。(執成すやうに屑を叩きて)それでは
ごんびん
まるで言便咎めに過ぎない。先生の趣意は、たゞ弟子として師匠に
対する子路の深切を説かれたのだ。
宇津木 いや、違ふ。それでは、臣なくして臣ありとなす、吾れ誰をか欺
かん、天を欺かんや、とまで切言されてゐる孔子の金言が意義を失
ふ。倫理上の大問題だ。
平八郎 宇津木、明らかに斯う云つたらどうだ。不徳義の大塩中斎には、
おれは、家臣の礼をとつて仕へるに忍びない、と。
宇津木 (同じく睨んで)あなたこそわたくしに然う云ふがいゝ。一切の
自分を棄てゝ、臣下のごとく、奴隷のごとくわが前に屈従せよと、
云ふがいゝ。
平八郎 わが教育した門弟は、師匠のものではないのか。
宇津木 自分のものだ。
平八郎 何――。
平八郎、思はず呻きて立ち上らんとす。格之助、支ゆる。
び
宇津木 矩之允のごとき、君とするところ微なりと雖も、井伊掃部頭があ
る。何者と雖も、その他の支配は決して受けない。
平八郎、顫へつゝ睨む。悲憤の涙その瞼に溢れる。
宇津木 あなたは宇津木を、臆病利巧者になつて長崎から帰つて来た、と
云ふ。寧ろ僕は、勇気をもつて帰つたと云はれたい。僕が虚無説を
拡張して、一切を傍観し、無抵抗の態度をとるのを、あなたは臆病
のためと思ふのか。わたしは総ゆる権力を拒否するために、この冷
ぬる
淡を保つてゐるのだ。あなたはわたしの言葉を温しとして、心に戦
ふ言葉を出せない.ものゝやうに云ふ。わたしは最も静かなる言葉
を発する時、常に最も心中に戦うてゐるのだ。僕に云はせると、あ
ぶ
なたこそ臆病者だ。無類の怯懦者だ。あなたはわたしに撻たれたい
と云ふが、あなたはその鞭に堪へ得られる人ではない。
瀬田、庄司等、気をもみて制止せんとすれども、宇津木は興奮して
聞かず。蒼白になりて目には涙さへ湛ふる。
格之助、平八郎を退座せしめんと努むれども、平八郎は微かに首を
振るのみ、動かず。
れいせいしつこ
宇津木 あなたは自著洗心洞剳記のなかに、諮コ疾呼して太虚の霊を説き、
永遠を説き、人生の不滅を説き、さかんに君子の陽徳剛性を主張し
てゐる。然しそれは寧ろあなたの、人間としての弱さと不安から来
しんぎんご
る溜息なのだ、懺悔録だ、呻吟語だ。あなたは病気にも弱く、性格
にも臆病者だ。あなたは始終肺病に抵抗して、酒を飲み寒威を冒す
わづ
と云ふけれども、実は絶えず死の恐怖に苦しみつゝ、纔かに逆行に
よつてこゝろの不安を紛らしてゐるのだ。また、あなたは剳記のな
だかつ
かに、名聞を悼み、富貴を悼み、栄達を憎んで蛇蝎のごとく厭うて
ゐるのは、その名聞に駆られやすき自分、富貴栄達に動かされやす
ばいかく
い自分の弱さを恥ぢ恐れて、強ひて虚無の貝殻のなかに身を閉ぢよ
うとしてゐるのだ。あなたは善を急ぎ悔恨を急ぐ。みなその同じ弱
さから来てゐる。恐らくあなたほど過去の自分に執着する人はある
まい。わが行為の善悪がいつまでもこゝろに残つて、水牛のごとく
はんすう
絶えずそれを反芻してゐる人だ。天地は流転する。何故もう少し自
性を深め強めて、自己を他人として眺められないのです。善事もま
た人生の一過事、悪事もまた一過事、過去を過去として徒らに停滞
む げ
せぬところに、流通無碍の生命を見ると思ふ。
平八郎、何か云はんして能はず。寂しく口を噤む。
さば べんぼく
宇津木 あなたは常に自ら審くと傲語しながら、何故に他人に鞭を待ち
ます。他人の鞭を待つのぢやない。実は他人の憫み他人の赦しを迫
つてゐるのだ。人によつて赦されようとする本来の弱さは洵に同情
か き たんらん
すべきだが、藩籬を超えて他人の心中まで侵入してくる貪婪さには、
まさ
実に厭ふべきものがある。あなたは当に己れを慎まなければならな
い。人の熱に因つて生きようとするのは卑怯だ。
平八郎、やゝ項垂れる。一同、粛然として目を伏せる。
宇津木、涙を帯びて傷ましげに師匠の姿を見詰むる。
宇津木 (やゝ間を置きて)先生、あなたは御自分の憔悴に気がつかれま
せんか。わたしは長崎から帰つて、第一に貴方の衰へを見た。病気
も進んでゐますよ、こゝろも疲れてゐます。先生、御自身の過失を
悔悟なさるのはいゝ。然しさうあなたのやうに、間断なく自分を責
さいな
め苛んではお体をやぶりますよ。たとへ御自分の肉体でも、然うま
で苦しめるものではありません。あなたは悔まんがために悔み、悔
ぐわんろう
恨を玩弄してゐるやうにさへ見える。先生、あなたは物に拘泥し過
ぎる。わが体とて、赦す時には赦さなければなりません。
平八郎、無言。
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