Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.8.27

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その32

真山青果(1878-1948)

『真山青果全集 第4巻』 大日本雄弁会講談社 1941 収録

◇禁転載◇

第四幕 (4)

管理人註
  

宇津木 なるほど先生の近状には、俗人にもあるまじき失行があつた。然    しそれとて致し方はありますまい。自ら赦さないで、他人の誰がそ     あやまち               あ か    の過を赦し得ませう。あなたはもはや嬰児さんを膝に抱かれていゝ。    本性のまゝに愛されていゝと思ふ。過のあるところに人間を見る。    わたくしはあなたの過失を見て、却つて人としての親しみを覚えた    やうな気さへした。(座を少し進め)先生、哀しみは心の死より大                            なるは莫しと云ひます。又、過ちを恥ぢて非を作すなかれ、とも云    ふ。君子の過ちは日月の触するごとく、万人をして仰ぎ見させなけ    ればならない。先生、この時は一段の工夫を進められる時と思ふ。    ――これでわたくしは云ふだけ云つた。口を噤ぢます。    宇津木、腕を組みて目を瞑ぢる。平八郎、黯然として俯向くのみ。    一同顔を上げず。    暗鬱なる空気、一座に漂うて長き沈獣つゞく。 宇津木 (興奮やまず、不快なる沈黙に堪へざるものゝ如く、目を瞑りし    まま又不用意に口を開く)跡部の事件も然うだ。砲術修業とて然う              きは                      だ。あなたには、物を究めるよりは、物におぼれる習癖がある。小    ども ひいいぢり    児が火弄をして、身を焼く危さにまで近づくやうに、あなたは不安    恐怖に駆られるほど、その危険の方に引き擦られて行く人だ。火薬    製造も奉行所の気受けがよろしからぬと知れば知るほど却つて深入    りして、大砲をつくり、棒火箭、地雷火のごときまでを製造して、    われから危険を冒さずにゐられないのだ。    平八郎、ヂロリと目の隅より宇津木を睨み、また力なく嘆息して俯    向く。 宇津木 (自ら黙止せんとして能はぎる如く、また云ふ) あなたの救民    策なるものを御覧なさるがいゝ。第一策には誠意があるが、第二第               きだう          けんペん    三と切迫するほど次第に詭道に墜ちて、権変不可思議なものになる。    経済の政策としても次第に卑劣なものになる。これは奉行に勝ちた    いためではない。本心は跡部を恐れてゐるのだ。小児が水溜りを歩    いて、新しい下駄をよごすことを恐れながら、やはり一思ひに水に    踏み込まずにはゐられなくなるやうに、あなたは跡部を恐れる不安    から、却つて身を危きに近づけるのだ。 平八郎 (やゝ侮蔑の苦笑を洩らしつゝ)一身の問題は君の折檻も受けよ    う。然しわが学説性質までさかのぼつての批判は、寧ろ君の云ひ過    ぎであらうと思ふ。今日は答へぬ。(静かに立ち、書斎の方へ歩む)                     せつぷく 宇津木 云ひ過ぎではない。あなたの迷妄を折伏するのだ。 平八郎 中斎の経済は迷妄か。 宇津木 発足を誤つてゐる。 平八郎 天下蒼生を憂ふるは悪事なのか。 宇津木 行為を先にするが悪い。学者は、先づ思ふべきである。                         平八郎 (喉に音して唾液を飲み、されど静かに)禹は天下に溺るゝ者あ       おのれ          しよく    らば、己これを溺らすが如く、稷は家天下に餓うる者あれば、己こ    れを餓ゑしむる如く、そのこゝろが痛んだと云ふ――。                              宇津木 天道は循環す。天は人の寒さに苦しむ、故にその冬を輟めない。     げだう 平八郎 外道――。    平八郎、躍りかゝりて宇津木の鬢髪を摘み、引き据ゑ引き廻す。    塾生門弟等、これを止めんとして能はず、たゞ喧囂騒乱するのみな    り。宇津木、最初は少しは抵抗を試みたれど、後は観念して為すが    まゝにまかせる。    橋本忠兵衛、羽織袴の姿にて売書施行の本屋会所より駈け付け来る。    羽織の袖などほころび、泥にまぶれ、面色も甚だ興奮してゐる。 忠兵衛 (両人を引き分けつゝ)先生、何んの真似だ……何んの真似だ。    先生、また気違ひの真似をさツしやるか。 平八郎 (宇津木の両鬢をつかみ、対坐して)さ、まだ云ふことがあるだ             きちく    らう、云へ、云へ、鬼畜……悪魔……。    平八郎、肩息になりて宇津木を引き廻す。 忠兵衛 先生、それよりも大事が起つた。先生、御奉行所から今日の施行    に故障が出た。跡部さまから難題を持ち込んでござつた。    平八郎、思はず手をとゞめて忠兵衛を見る。           忠兵衛 跡部さまの為され方は実に陰険極まる。百姓ながら腹を据ゑかね、    わしはこれからお役所に暴れ込まうかと思つてゐる。 平八郎 (宇津木を突き離して)施行がならないと云ふのか。 忠兵衛 それならば未だ男らしい。然うぢやない、今日の施行の行事、河    内屋善兵衛、新次郎、記一兵衛などを引ツ立てゝお取調べが初まつ                たゞごと    たのだ。何んでもこれは、徒事では済まぬ、済まぬ。(平八郎の耳    に口を寄せて)容易ならぬ風説もござりまするぞ。 平八郎 (吃ッとして)風説とは、平八郎を縛るのか。 忠兵衛 (両手に後頭部を抱き、絶望的に叫ぶ)覚悟だ、覚悟だ。 平八郎 覚悟とは、謀叛だ。役所へ踏み込んで、跡部と差し達へて死ぬの    だ。皆その覚悟をしろ。                  ふ と    平八郎、一同に命令しつゝ、不図宇津木と視線を合せる。互ひに見    詰める。そのうち宇津木の面上には冷然たる詆笑漂ひ、そを見る平    八郎の目は弱々しくたじろぐ。    この間に格之助、瀬田、庄司など額をあつめて忠兵衛と囁き合ふ。    大井、安田など旧塾生等は踴躍して喜ぶ。

   


「大塩平八郎」目次/その31/その33

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ