時 天保八年二月十九日。払暁より夜に至る。
処 大塩屋敷うち、新塾舎。
新塾舎のうち宇津木矩之允の居室と定めたる部屋。
八畳と六畳ほどの二室つゞく。六畳の間の片隅に階段の下り口ありて、
その二階なるを知る。正面は格子窓にて、四方は暗鬱なる壁の色。二
重を障子にてしきり、押入れあり。
窓下に宇津木の机を置き、傍に二三箇の本箱あり。机辺には、雑書を
なげし
乱雑に積み重ね、小さき火鉢、敷物、土瓶など置きちらす。長押には
小倉袴、羽織など掛けたり。机の上に一輪の白き花を挿したり。六畳
かうり
にも小机を置き、竹行李など置く。岡田良之進の座席なり。
幕あく――。時刻は暁の六ツ時(午前五時半頃)にて、窓障子に蒼
白き朝の光線うごき、枕頭の行灯微かにともりて、宇津木は仰臥の
姿勢にて臥床に眠る。隣室の岡田はいま起き出でたるさまにて、帯
を結び夜具をたゝみて片付けながら、屋外の物普に注意す。その音
ひ
あたかも大槌にて家屋など破壊する如く、また竹材など挽き切る如
く、次第に明らかになる。
岡田、怯ゆるやうに佇立して、聞く。
岡 田 先生、先生。(低声。障子をあけて、宇津木の臥所に近づく)先
おもや
生、また母屋が騒がしうございます。
宇津木 …………。
岡 田 (揺り起すやうにして)先生、宇津木先生……。
宇津木 (仰臥のまゝ、静かに)知つてる。さつきから聞いてゐる。
よあかし
岡 田 夜ツぴて、夜明したのでせうか。
宇津木 うむ――。(低く、唇を噛むやうな嘆息)
岡 田 様子を見て来ませうか。(窓際に立つ)
宇津木 出てはいけない、怪我をする。
た
宇津木、鋭く叱りて半身を起して、凝ツと耳を聳つる。やがて物音
やみて、遠き鶏の声聞える。
岡 田 先生、多勢の人声が聞えます。人足どもの姿も見えます。(不安
さうに戻りて、師匠を見る)
宇津木 (畳の一点を見詰め、独白するやうに)僕が卑怯なのだ。断然……
争ふことが出来なかつた。(項垂れて涙含む)
岡 田 昨晩大先生に呼ばれて、何か、あつたのでございますか。
どうかつ
宇津木 恐らく、先生の恫喝だ。先生にその決断はない。(強ひて心中の
ちやううち
屈託を払ひ、顔を上げ)例の丁打の練習だらう。騒がないがいいぞ。
岡 田 はい。
宇津木 先生はあゝ云ふ……弱い人なのだ。僕はあの弱さに引かれる。僕
が膝に縋つて行けば、悦ぶのは分つてゐるがね、どうも僕にはそれ
から
が出来ないのだ。僕にも矢張り……穀があるよ。(寂しく笑ふ)
岡 田 然し、このごろ塾内の光景がよほど違つて居ります。旧塾の人々
は互ひに目と目でさゝやき合つて、わたしなどを見ると、ピタリと
話を止めます。何かわたしどもの知らないことを、あの人達は知つ
てゐるやうにも見えます。
宇津木 お互ひに、反感だよ。(伸び上りて行灯を吹き消す)
うちかた をなご
岡 田 お内方の女子様だちは、どうなさいましたらう。御湯治に行かれ
て、もう一月以上になります。
宇津木 然うだ、然うなるねえ。
岡 田 そして毎晩のやうに大勢あつまつてお酒盛です。大工だの、版木
屋だの桶屋だの、食堂へ行くたびに顔の知らない職人が泊りこんで
ゐて、みな忙しさうに立ち廻つて居ります。
宇津木、埋れ火を掻き立て、長煙管に煙をくゆらしつゝ、貧乏ゆる
ぎして、何か考へゐる。
岡 田 わたし、不思議に思ひます。昨夜、大井戸のところで吉見君 に
会ふと、いきなりわたしの手を握つて涙ぐむんです。何んにも 云
ひませんけれど、それだけに僕……不思議に思ひます。
い つ
宇津木 (突然)奥の蓮地を埋めたのは何日だつたらう。
岡 田 お内方様だちが湯治に行かれて十日ほど後ですから、先月の十八
九日と思ひます。
宇津木 先生はその時、人足を指図しながら、君に何んとか云つたね。
岡 田 僕に仰しやつたものか、それは分りません。何しろあの古池に金
魚も緋鯉もこゝろよく遊んでゐるのを、先生は築山をくづさして、
一尾残さず魚を生き埋めになさるんです。僕……先生は発狂したの
かと思つて、呆れて眺めてゐると、先生はチラとわたしの方を御覧
になつたやうです。城門火を失す――確かに然う仰しやつたと思ひ
ます。
わざはひ ちぎよ
宇津木 城門火を失す、殃、池魚に及ぶ――恐らくはその遺意なのだらう。
(嘆息、俯向いて)僕には勇気がなさ過ぎる――
岡 田 (不安さうに)先生、昨夜のお話は何んでございます。
宇津木 一大事がある。お前はどう身を処置するか、先生は大勢のなかで
盃を持ちながら、突然圧倒的に詰問された。一大事とは何んですか、
僕は反問した。それは問ふに及ばぬ、生命を中斎に託するか――党
生の眼は血走つてゐた。膝頭にヂリツ/\と、畳の目を刻んで詰め
寄る先生の心持が、僕には明らかに感じられた。僕はいつもするや
こら
うに、目をつぶつて先生の強迫を冷やかに怺へた。かなり長い間で
あつた。先生もそれぎり云はぬ、僕も云はない。目礼して塾に帰つ
て来た。
岡田、唾を嚥みて、師匠の眼を見詰める。
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