宇津木 過日開講のあの騒ぎ以来、われ/\師弟は昨夜はじめて顔を合は
せたのだ。先生にも訊ねやうがあつたらうし、僕にもまた……答へ
やうがあつたのだ。それが二人ともに出来ない……俺の弱さだ。お
れは昨夜ほど自分の無力卑劣を愧ぢて、寝床の上に苦しんだことは
ない。真実の愛情をもつて諌めることの出来ない僕はせめて言葉を
いさ
もつて先生の無謀を諍めやうと思つて、夜中から起きてこの長詩を
推敲したのだ。(枕辺にある詩稿を示しつゝ、寂しく微笑する)詩
文のうへの僕は熱血児だ。然し矢張り僕は……奮発のない懦弱者な
のだ。
岡 田 先生、(座を進め)それで大先生はどうしても……。
宇津木 先生目下の標的は跡部一人だ。然し権力のつゞくところ、その背
後には幕府がある。先生いかに狂乱しても、それを考へない筈はな
い。今の時代に、決してそんな暴挙は実行されるべきものではない。
僕は昨夜興奮にまかせて、詩句のなかに将門や光秀までを故事に引
き照らして、先生を苦諌しようとした自分の迂闊を、今朝覚めて恥
かしく思つてゐるのだ。はゝはゝゝ。
宇津木、笑ひながら詩稿を引き裂かんとして躊躇す。また考へ直し
て紙の皺を一枚づつ伸ばす。この時屋外に、材木を倒すやうな物音
二度ほど地響きして聞ゆ。宇津木、岡田、はツとしたるやうにお互
ひの眼を見る。耳を澄ます。
そ
宇津木 (臆病らしく少年より眼を外らしつゝ)それでだねえ、岡田君。
岡 田 は?
宇津木 君はこの際、長崎へ帰つたらどうだらうね。
岡 田 どうしてゞすか。(眸を顫はし)何かあるんですか。
宇津木 然うぢやないが、たゞ……僕の優柔不断が或は君の……終生を誤
おそ
りはしないかと、妙に近来惧れられて来たのだよ。僕は君のうへに、
段々と自分を見るやうな気がして……苦しくなるんだ。考へると云
ふ言葉も、やはり一種の怠慢なのだね。
岡 田 然し先生、僕は決して――。(固くなりて気色ばむ)
宇津木 (寂しく微笑しつゝ)今日に限つたことぢやない。まあユツクリ
考へて見るのだね。
岡 田 先生、危険が近づいてゐて、然う云はれるのではありませんか。
大塩先生は、間違ひはありませんでせうか。
宇津木 大丈夫だ。僕が現に斯うしてゐるではないか。
宇津木、起き上がりて、寝具をたゝむ。岡田、それを押入れへ搬ぶ。
岡 田 (序に窓の外を見て)先生、あの煙は何んでせう。
宇津木 ほう、焚火らしいね。(同じく窓より望み見て)また今日も騒々
しいことだらう。顔を洗つて来たまへ。
岡田、手拭、楊枝をとりて二階を下りゆく。宇津木、枕頭の行灯、
雑書などを片付けつゝ、不図思ひ浮ぶことあり、硯箱を引き寄せて、
詩稿の二三字を訂正する時、屋外急に騒がしく、爆竹の音など、け
たゝましくも聞える。
た
宇津木、その物音に屹ツと耳を聳てしが、また長詩の内容の興奮を
恥らふやうに、微吟しつゝ文字を改め、また改む。やがて詩稿を引
き破りて丸め棄て、机上より新しき美濃紙を出し、畳にひろげて長
篇詩を清書す。書きて中途に及びたる時、岡田長之進、顔色を変へ
て狼狽しつゝ走り来る。
|