Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.9.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その38

真山青果(1878-1948)

『真山青果全集 第4巻』 大日本雄弁会講談社 1941 収録

◇禁転載◇

第五幕 その一 (2)

管理人註
  

宇津木 過日開講のあの騒ぎ以来、われ/\師弟は昨夜はじめて顔を合は    せたのだ。先生にも訊ねやうがあつたらうし、僕にもまた……答へ    やうがあつたのだ。それが二人ともに出来ない……俺の弱さだ。お    れは昨夜ほど自分の無力卑劣を愧ぢて、寝床の上に苦しんだことは    ない。真実の愛情をもつて諌めることの出来ない僕はせめて言葉を             いさ    もつて先生の無謀を諍めやうと思つて、夜中から起きてこの長詩を    推敲したのだ。(枕辺にある詩稿を示しつゝ、寂しく微笑する)詩    文のうへの僕は熱血児だ。然し矢張り僕は……奮発のない懦弱者な   のだ。 岡 田 先生、(座を進め)それで大先生はどうしても……。 宇津木 先生目下の標的は跡部一人だ。然し権力のつゞくところ、その背    後には幕府がある。先生いかに狂乱しても、それを考へない筈はな    い。今の時代に、決してそんな暴挙は実行されるべきものではない。    僕は昨夜興奮にまかせて、詩句のなかに将門や光秀までを故事に引    き照らして、先生を苦諌しようとした自分の迂闊を、今朝覚めて恥    かしく思つてゐるのだ。はゝはゝゝ。    宇津木、笑ひながら詩稿を引き裂かんとして躊躇す。また考へ直し    て紙の皺を一枚づつ伸ばす。この時屋外に、材木を倒すやうな物音    二度ほど地響きして聞ゆ。宇津木、岡田、はツとしたるやうにお互    ひの眼を見る。耳を澄ます。                  宇津木 (臆病らしく少年より眼を外らしつゝ)それでだねえ、岡田君。 岡 田 は? 宇津木 君はこの際、長崎へ帰つたらどうだらうね。 岡 田 どうしてゞすか。(眸を顫はし)何かあるんですか。 宇津木 然うぢやないが、たゞ……僕の優柔不断が或は君の……終生を誤                  おそ    りはしないかと、妙に近来惧れられて来たのだよ。僕は君のうへに、    段々と自分を見るやうな気がして……苦しくなるんだ。考へると云    ふ言葉も、やはり一種の怠慢なのだね。 岡 田 然し先生、僕は決して――。(固くなりて気色ばむ) 宇津木 (寂しく微笑しつゝ)今日に限つたことぢやない。まあユツクリ    考へて見るのだね。 岡 田 先生、危険が近づいてゐて、然う云はれるのではありませんか。    大塩先生は、間違ひはありませんでせうか。 宇津木 大丈夫だ。僕が現に斯うしてゐるではないか。    宇津木、起き上がりて、寝具をたゝむ。岡田、それを押入れへ搬ぶ。 岡 田 (序に窓の外を見て)先生、あの煙は何んでせう。 宇津木 ほう、焚火らしいね。(同じく窓より望み見て)また今日も騒々    しいことだらう。顔を洗つて来たまへ。    岡田、手拭、楊枝をとりて二階を下りゆく。宇津木、枕頭の行灯、    雑書などを片付けつゝ、不図思ひ浮ぶことあり、硯箱を引き寄せて、    詩稿の二三字を訂正する時、屋外急に騒がしく、爆竹の音など、け    たゝましくも聞える。                      宇津木、その物音に屹ツと耳を聳てしが、また長詩の内容の興奮を    恥らふやうに、微吟しつゝ文字を改め、また改む。やがて詩稿を引    き破りて丸め棄て、机上より新しき美濃紙を出し、畳にひろげて長    篇詩を清書す。書きて中途に及びたる時、岡田長之進、顔色を変へ    て狼狽しつゝ走り来る。

   


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