|
岡 田 (歯の根も合はず、顛へつゝ)先生、果して然うです。大先生は
今、騒動を起すところです。(と宇津木に縋りつく)
宇津木 (思はず持てる墨筆を紙に立てゝ)何――。
岡 田 大塩先生は庭に出て、人夫や一同を指揮してゐます。役に立たぬ
者は斬つてしまへ、と大声に叫んでゐます。先生遁げて下さい、遁
げて下さい。(夢中に引ツ張る)
宇津木 遁げようたつて、遁……遁げられるものではない。仕方がない、
その時の覚悟だ。(岡田に引かれて立ち上りしが、顛動しながら又坐る)
岡 田 危い、殺される。
宇津木 殺、殺されても仕方がない。おれは、覚悟してゐる。
宇津木、顫へる手に全詩を清書し終り、紙端に大きく絶命辞、宇津
木共甫と書す。
岡 田 (題辞を読み、驚く)先生、辞世の詩なのですか。
宇津木 僕は先生を苦諌するこゝろで作つた。然し……墓誌銘にもなるだらう。
岡田、少年らしく声立てゝ泣き出す。
なんびと
宇津木 (その声に追はるゝやうに、狼狽しつゝ)何人も死ぬのだ。ここ
おもむ
で死ねば、おれは、忠孝の人だ。慷慨、難に趨くは易く、従容、義
ばうれい
に、就くは、難しとさへ云ふ。僕は、僕の信念のために、彼の暴戻
ほこ
の刀に死するを衿りとする。彼はおれを殺すが、おれの、俺の学説
は殺せないのだ。おれは大塩学の正統者だ。彼がおれを殺すのは、
手づから自分の信仰を殺すのだ。おれは身命をもつて、斯学の権威
を維持しなければならない。人生詩本粉本の称ありだ。おれは先生
に殺される、殺されよう。
宇津木、言語に熱を加ふると共に、態度次第に沈着して、顛動のさ
ま退く。
この時、屋外より何人の声とも知れず「宇津木君、宇津木々々」と
荒らかに呼ぶ者あり。
岡田、驚愕して師匠に縋りつく。宇津木、弟子を固く抱きて、目に
た
て騒ぐなと叱りつゝ、しかも尚ほ不安さうに屋外の物音に耳を聳つ。
やゝ長き間。やがてその声去りて、何の響もなし。
宇津木 (ホツと息を吐き、岡田を離して)兎にかく、君はこゝを立ちの
いてもらひたい。君は大塩の弟子ではない。君の御両親にたいして
僕の責任もある。屋敷うちの混雑にまぎれて、今、直ぐ、ここを遁
げてくれたまへ。
岡 田 先生はどうするんです。遁げないんですか。
と
宇津木 僕は、僕は――。(咽喉に蓋するやうに、ハタと口を噤ぢ、凝ツ
と眼前の一点を見詰めて、湧き上る涙を怺へつゝ)僕はやツばり、
大塩先生を愛してゐるんだねえ――。このまゝ先生を見離せないや
うな気もするし……又……離れても解けない縄が……二人の間に、
繋がれてゐるやうな気もするのだよ……。
きよき
宇津木、俯向きて歔欷す。岡田、泣く。
宇津木 (顔を上げて)人に心づかれては悪い。岡田君、君はこの詩稿を
もつて、これから京都本願寺を訪ねて、粟津陸奥之助と云ふ人に貸
してある僕の詩文稿があるから、君は京都へ行つて受取つて、彦根
にゐる兄下総のところへそれを届けてくれたまへ。兄の屋敷には大
林権之進と云ふ男がゐるから、それに会つて手渡しにして貰ひたい。
岡田君、何を泣いてゐる。早く遁げないと、君の身が危い。岡田君。
岡 田 先生、僕は――
宇津木 それを云つてる時ではない。君は今死ぬ身ではない。君には前途
がある。
岡 田 然し…‥僕、厭やです……厭やです。(泣く)
宇津木 人の足音がする。早く、早く遁げたまへ。君がなくて、誰がこの
僕の潔白、この信念を世間に伝へてくれるのだ。泣いてゐる時ぢや
ない。
岡 田 先生――。
宇津木 早く遁げたまへ。裏口から廻つて小門を出るのだ。早く、早く――。
宇津木、激しく岡田を叱りて窓際に立つ。
岡田、泣きゐる。
――道具廻る――
|
暴戻
荒々しく道理
にそむいてい
ること
歔欷
すすり泣く
こと
|