|
忠兵衛 先生、斯く壁に馬を乗りかけて、今更ら卑怯の思案はなりませぬ
ぞ。昨夜中には村々に檄文も配布してある。又、大事が人足どもに
洩れてゐる。今更ら引かうと云つても、引かれる場合ではござりま
せぬぞ。
平八郎 分つてゐる……分つてゐる。(煩さゝうに呟きて、顔を上げ、格
之助に)格之助、宇津木はこの騒ぎを知らぬ筈はあるまい。何んと
も云つて来ないか。
格之助 新塾舎はひツそりと、寝静まつて居ります。
平八郎 様子を見て来い。彼の意志が知りたいのだ。
格之助 は。
格之助、忠兵衛と顔を見合せ、己むを得ず走り去る。
忠兵衛 (平八郎の腕を掴みて)先生、お前さまはこゝになつてもまだ、
まうりやう
その魍魎が払はれませぬか。
平八郎 然し、彼は本心からおれを……離れて行くのか。おれの行く途は、
彼と、彼と……同じ途ではなかつたのか。おれには、それが……信
じられない。彼はおれが作つて、おれが魂を吹き込んだ人形ではな
いのか。
忠兵衛 自分の作つた人形に、殺される時もあるんだ。先生! ハラ/\
と落涙、平八郎の手を打ち振り)もうその未練を去つたらどうだ。
あなたは潔く死ねばいゝのだ。又、死なゝければならない人なのだ。
(耳に口を寄せて叱る)
平八郎 無論その覚悟は失はない。たゞおれは……おれ自身の理性を彼の
うちに預けてあるやうな気がする。彼の脣は、おれの心の奥に潜む
……おれの本来の理性が……声を発してゐるのではないかと……思
ふときがある。彼とおれとが争ふのは、二人の人が思ふのではない。
一人だ。おれが……おれ自身のなかの一人と闘つてゐるやうな気さ
へするのだ。
と
忠兵衛 先生、その愚痴の段ほ疾うに峠を過ぎてゐる。(口惜しげに平八
郎を揺すぶりて)今は、死ぬだけがお前さまの問題だ。その決心が
ついてゐますか。
平八郎 それは無論――
忠兵衛 然うぢやない/\。お前さまには、いま自分が何をしてゐるか、
し まぼろし
身に染みてゐない。幻影に動かされてゐる。(耳に口を寄せ、声を
潜め)好いか先生、こゝへ来てはもう遁げられないよ。駄目だぞ、
駄目だぞ。死ぬ――死ぬと云ふ言葉を、はツきりとお前さまのこゝ
ろに喚び起して下されよ。
平八郎 分つてゐる。(不興気に立つ)
忠兵衛 いや、お前さまには分つてゐない。(無理に引き据ゑて)先生、
一族も門弟も、みなお前さまのために死ぬのだ。お前さまがまぼろ
ちゆうう
しに浮かされて、中有に迷つてござつては、皆……死ぬにも死なれ
まい。(ハラ/\と泣き)先生、機密は漏れてゐる。善も悪ももう
考へる時ではない。死ぬと云ふこの事実、この事実を決して忘れて
下さるな。
平八郎 (屹ツと顔を上げ)おれは大義に発するのだ、人民、百姓の味方
がある。
忠兵衛 それは外だ。お前さまはこゝろのなかに味方をもたなければなら
ない。
平八郎 (ふいと立ち)宇津木はどうした、見て来る。
しやうこり
忠兵衛 (嚇ツとして、前に立塞り)性懲もなく、まだそれを云はツしや
るか。この場合、宇津木一人が何んだ。彼に聞かなければ、死ぬこ
ともならないか。打つぞ、先生、――おれは打つぞ。
忠兵衛、悲憤の拳を固めて詰め寄る。平八郎、茫然として佇立する
のみ。
格之助、戻り来る。
格之助 新塾舎には、何の物音もございません。宇津木兄はまだ眠つてゐ
ると見えます。
平八郎 然うか、眠つてゐるか……。(溜息して、また葛籠に腰掛け、凝
ツと畳を見詰める)
忠兵衛 (格之助に)君、この人はもう相手にはならない。手筈通りわれ
/\で決行しよう。庄司君はまだ来ないか。渡辺、人数を集めてく
れ。人数だ、人数だ。
忠兵衛、興奮し、競合しつゝ走り去る。格之助、気遣はしげに養父
を見守りゐる時、作事場の方に二三度爆竹の普して、ガヤ/\と人
声聞ゆる。
|
中有
四有のひとつ、
人の死後,次の
生を受けるまで
の間の状態
|