Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.9.7

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その42

真山青果(1878-1948)

『真山青果全集 第4巻』 大日本雄弁会講談社 1941 収録

◇禁転載◇

第五幕 その二 (3)

管理人註
  

平八郎 (誰に云ふとなく)人間の言葉ほど……たよりの無いものはない。    おれは宇津木と、どれだけ真実のこゝろを話しあつたらう……。斯    うして、人間と人間とが……別れて行くのだ。宇津木はあちらへ……    おれはこちらへ、みな別れて行くのだらう。    平八郎、声立てゝクツ/\と寂しく笑ひゐる。 格之助 父上! 平八郎 (極めて静かに)知つてゐる。軍令状の通り、みな部署につくが    いゝ。 格之助 然しまだ奉行の動静が判然しません。それでも直ちに、爆発いた    しますか。                なじ 平八郎 無論だ! (その怯儒を詰るやうに睨み、また静かに)俺はその                               とき    ため逡巡してゐるのではない。たゞ、今になつて、静かな一刻の時    間が欲しくなつたのだ……。(溜息して、壁を見詰める。間を置い    て)意地の悪いものだ。今、この時になつて……急に自分のための    時間が、半刻でもいゝ、急に……欲しくなつた。何んだか、一生の    うちで最も大切な一大事を、これまで……考へのこしてゐたやうに    思ふ。(寂しく微笑して)自分ながら不思議だ。こゝろが水のやう    に澄んで、今こそ、生死の一大事に徹底しさうな気がするのだ。あゝ、    一刻の静かな時が欲しい……。 格之助 父上!     さわ 平八郎 擾がしてくれるな。おれは今初めて……真実の自分を見得るやう    な気がする。    平八郎、瞑想す。格之助、嘆息して去る。    屋外には器具を毀つ物普、人声、爆竹の音など、雑然としておる。    やゝ長き間。    冬らしき朝晴の日光、静かに紙窓に動き、何処ともなく渡り鳥の囀    り微かに聞ゆる。    庄司儀左衛門、火事装束草鞋ばきにて、入り来る。 庄 司 遅刻いたしました。一同、用意が整ひました。 平八郎 (心痛む如く、庄司を見て)家族の処置はつけたか。 庄 司 はい。それ\゛/に欺いて……立ち退かせました。 平八郎 心残りはないな。 庄 司 最早――。(声を呑み、決然として)何もございません。 平八郎 頼む。    平八郎、庄司、互ひに擬ツとその目を見詰む。庄司、落涙しつゝ走    り去る。    渡り鳥ひとつ、鉢前の石をつたつて鳴く。平八郎、見るともなく小    禽を見る。塀外の騒音、その間も折々聞え来る。         ふ と    平八郎、不図何か思案して硯箱を探し、料紙に詠草の如きものを二    三字認めしが、やがて、嘆息して筆を畳に投げる時、大井正一     郎、白袴を穿き革胴の腹巻をつけて憤激しつゝ入り来る。 大 井 先生、時刻が迫ります。どうなさるお考へだ。     はや 平八郎 逸るな。(鋭く叱責して)いま行く。 大 井 時延びるほど人足百姓に怖気づいて、潜かに脱走を企てるものさ    へ顕はれます。 平八郎 斬つてしまへ――、役に立たぬ者は、斬つてしまへ!    平八郎、わが心中の暗影を払はんとする如く、思はず大喝して立つ。    されど大井は去らず、佇立して平八郎を見る。平八郎の視線また鉢    前の小禽に引かる。 大 井 (苦々しげに見詰めて)先生、あなたはまだ宇津木を待つてゐま    すか。                    うる 平八郎 (電撃に遇ひたる人の如く驚き)煩さい。おれのこの静けさを破    るものは誰だ! おれはたゞ一時の……自分の時を凝視してゐるの    だ。 大 井 あなたの心に、狐疑逡巡の種をまいたのは彼奴だ! 平八郎 理性の叫びだ!(思はず反射的に叫ぶ)おれに失はれた理性の声               ほとばし    が、宇津木の口をかりて迸り出るのだ。彼はおれだ、おれだ。おれ     たましひ    の霊魂が……悲しげに、叫んでゐたのだ。然うだ。おれだ……おれ    だ、おれが……悲しく叫んでゐたのだ。    平八郎、云ふ言葉のうちより済然として涙となり、ほとんど歔欷の    声を発せんとする時、邸内急に騒がしく、馳せ違ふ人々の足音、叫    び声など次第に近づき来る。平八郎、大井、共に愕然として耳を声    かす。    瀬田済之助、忠兵衛と儀左衛門に介抱されて、よろめきつゝ平八    郎の前に来り伏す。着ながしのまゝ脇差も佩びず、衣服も破れ、    鬢髪もみだれ、苦しげに呼吸してゐるのみ。安田を初め旧塾の門    弟等、その他の人々と共に、或は庭口より或は閾際より、みな立    ちて開く。          しっか 忠兵衛 瀬田さん。確りなさい。どうした、どうなすつた。(人々と共に、    左右より励ます) 瀬 田 秘密は漏れました。小泉は今……お弓の間でやられました。    瀬田、俯向いて泣く。一同、驚きて顔を見合はす。

小禽
(しょうきん)
小鳥
























歔欷
(きょき)
すすり泣く
こと




























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