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平八郎 何、淵次郎が斬られた――? (愕然として初めて自己に復り、
瀬田の肩を掴みて起し)何処から漏れた。誰だ、訴人は誰だ。
瀬 田 河合の忰が、吉見の英太郎と共に、今朝の未明、檄文を証拠に密
訴したものと思はれます。平山――彼も確かに同類と思ふ。
平八郎 裏切者がある。皆、油断するな! (縁側に走り出て、一同を睥
睨するやうに叫び)それ、門を閉ぢ、大砲を敷いて、討手の防禦
をするのだ。
門弟、人足、その命令に従つて走り去る者あり。
平八郎 (また瀬田を引き起して)で、小泉は? 小泉は――?
瀬 田 御巡見のお取止めになつたのは、昨夜深更らしうございますが、
わたくしも小泉も当番で宿直してゐながら、一向にそれを存じませ
ん。今朝目をさまして見ると、何んとなく役所内の気勢が殺気だつ
たゞごと
て居ります。同役の者が、わたくしどもを見る視線が、徒事ならず
感じられました。わたくしは小泉と、思はず眸を見合せました。小
泉は蒼ざめた顔に、目尻をつり上げて、微かに奥歯をカタ/\と鳴
らせてゐます。気がつくと、わたしの歯も……鳴つてゐました。処
へ、荻野と森脇とが参つて、二人に即刻御用談の間へまかり出るや
うにと、お上からの御用召でございます。小泉はもうこれまでと観
念して、わたくしに微笑を見せるこゝろであつたと思ひます。少し
脣を……痙攣させたやうに見ました。そして小泉が先に立つて、わ
たくしは後から、番所を出てあの畳廊下を……かなり物静かに歩い
つゝじ さゞんくわ
たと思ひます。お中庭のどうだん躑躅の上に、山茶花のやうな白い
花片が一つこぼれてゐるのを、わたくしは鮮かに目に残つてゐます。
お弓の間の入口へ参つて、いつもの処に、小泉は脇差をとつて置か
うとしますと、慌てゝ一人、誰か御近習の間から飛び出した者があ
る。はツとして小泉は、一度廊下に置いた脇差を取り上げました。
柄をつかんで引き上げたと見えて、鞘は走つて白刃になりました。
同時に御用談の間から、跡部さまの声で、それ、斬つて棄てい、と
はじめ
命ずるのを聞きました、はつきり聞きました。御師範役の一條一が
ひやくゑ
小泉のうしろに忍び寄つて、百会をかけて肩先へ――
平八郎 (思はず目を瞑つて、叫ぶ)もう好い。死んだゝけでいゝ。
はだし
瀬 田 わたくしは跣足のまゝ庭に飛び下り、北側の梅の立木を足場とし
て、夢中に塀を乗り越しました。塀の上から振り返つて見た時……
小泉はもう倒れて居たと思ひますが、わたくし、好くも見ません。
平八郎 うむ、然うか……。(全身の汗が一時に発散するやうなる声にて、
低く呟きゐる)
瀬 田 先生、もはや必死の場合だ。片時の猶予もなりません。御用意を
なすつて下さい。
平八郎 …………。
瀬 田 先生、わたくしも起つ、お支度をなすつて下さい。先生、何を躊
躇してお出でなさる。
平八郎 …………。
瀬 田 (声を励まして)先生、あなたは何んたる方だ!
平八郎 (卒然、顔を上げて)宇津木をどうするのだ。
瀬 田 宇津木――?
つ
瀬田、呆れてその顔を見る。忠兵衛、突と進み釆て平八郎の腕を掴
み、或る決心をもつて威嚇的に睨む。この時、門内に第一の喊声、
どツと起る。
平八郎 然しながら、師匠の大事に門弟の従はぬ筈はない。(やゝ弁解の
口調にて、呟くやうに云ふ)彼は吾が家の高弟だ。第一の門弟なの
だ……。
忠兵衛 あなたは洗心洞剳記に、穣苴が出陣に後れたる寵臣を罰するの件
を何んと評した、何んと書いた。(腕を揺すぶる)
平八郎 然し、然し……彼はこの際、何か云ふべき言葉があるべき告だ。
それを‥…それを聞いて行きたい。彼と、おれとは、この時、この
まゝ……無言の間に別れられるものとは考へられない。おれには、
それが考へられない……。
忠兵衛 何――? (顛へつゝ平八郎を壁の方へ押す)
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大坂東町奉行所図
百会
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『洗心洞箚記』
その38
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