同日の暮六ツ時(午後六時頃)。
場所は北船場なる八軒屋の附近。
空模様暗澹として低く曇り、今にも一雨来らんとす。河岸の土蔵は
焼け落ちて、白き煙を立て居り、近きほとりの火災は鎮まりたれど
も、遠方の火は炎々として燃えひろがり、その火勢は暗き空を焼き、
河水にうつりて凄まじき光景をなす。
伝馬船一艘、半ば苫を覆ひたるが、岸近く漂ふ。船頭直吉、棹をも
ちて立つ。積み重ねたる雑具のなかに、二三人潜みゐる姿見ゆる。
堤上には附近の避難者六七名、火事を眺めて立つ。
堤上には焼け残りの柳の樹。時々遠く羅災者の遁げまどふ騒音聞え
来る。
やゝありて避難者等は荷物を担ぎて、トボ/\と去る。水禽、けたゝ
ましく鳴く。
直 吉 旦那がた、船を何処へ着けます。
船頭、暗き苫の方を見て不平さうに問ふ。船中に潜むは、大塩父子
を初め瀬田、橋本、渡辺、白井、庄司その他にて、都合十四人なり。
暗きなかより、瀬田済之助と思はるゝ声聞ゆ。
瀬 田 何処でもいゝ。お前の好きな方へ漕いでくれ。
直 吉 八ツ時から今迄、同じ川筋を何べん上げ下げしてゐるか知れませ
ぬ。おらも家元が心配だ。何処なら何処とはツきり云つて下されよ。
渡 辺 (苫の中より)酒手は幾らでも出す。早く漕げ/\。
直 吉 金はさつき二両貰つた。金で申すぢやござらぬ。日が暮れると宿
も気になるし、却つて人に怪しまれるだ。どうか、行く先を決めて
下さいよ。
瀬 田 (声)えゝ、漕がないか。ぶツた切るぞ!
船頭、恐れて船を漕ぎ出さんとする。
格之助 待て、船頭。(声をかけて姿を顕はす)こゝで下りよう。
格之助、先に立ちて一同船を下りる。何れも手にせる錬砲武器の類
を河中に投入する。最後に平八郎、忠兵衛と共に船を出て来る。一
同の中には淡路町の敗走後に、着衣を改めたる者もあり。
瀬 田 船頭、今日のこの模様を人に語ると、必ず仇をするぞ。
直 吉 へえ、承知して居ります。
船頭、船を漕ぎ去る。(蛇目まはしを利用す)
くづ
平八郎 (頽るゝやうに捨石に腰掛けつゝ)橋本、君はわしの真意を知つ
てくれる筈だ。おれは決して卑怯にお前に遁げてくれと頼むのでは
ない。
忠兵衛 (暗涙を浮べて遠くを眺めつゝ)分つてる、分つてる。それはも
う……云はないがいゝ。
平八郎 然うではない。おれはこの上、お前に頼みたいことがあるのだ。
忠兵衛 兎にかく、わしは厭やだ。此の場に望んで、同志を見棄てて、自
分ひとり遁れようとは思はない。
平八郎 (泣くやうな声にて)橋本――!
忠兵衛 先生! おれの方ではお前さまの前途が気になつて、それを見届
けないうちは……離れられないのだ。先生、お前さまはまさかの時
に……おれが居なくてはならない人だ。おれは、それが心配だ。離
れるのは厭やだ/\。
忠兵衛、やゝ声立てゝ泣く。平八郎、俯向いて涙含む。
この時、避難民の一行通り過ぐ。一同、立ち重りて平八郎を囲む。
庄司一人は、次第に重り来る負傷部の疼痛に耐へず、柳の木の下に
倒れて呻きゐたりしが、唸り声漸次に高く苦しげなり。避難民等は
一同に心付かず、走り去る。
さつき こうぢいくさ
平八郎 (俯向ける同じ姿勢にて、卒然語り出す)先刻淡路町の小路軍に、
奉行方から打ちかけて来た鉄砲の勢は知れてゐる。強ひて喰ひ止め
ようと思へば、或はわれ/\の勝利になつたかも知れない。それを
おれが指揮して諸君に退去させたのは、味方と思つた民衆もわが味
方でなく、たゞ悪人奸商を焼くとのみ考へた業火が、善も悪も共に
焼き……百姓人足はみな散り/゛\にわれ等を棄てゝ遁げてゆく、
それ等の事実に勇気を沮喪したものと、諸君は思ふであらう。無い
とは云はない、確かにその失望はおれのこゝろにあつた。然し、あ
の時おれには、そのほかにも理由が一つあつた。正直にそれを、諸
兄諸君の前に告白して置かなければならないと思ふ。
平八郎、苦しげに言葉をきる。一同、黙然として聞く。
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