平八郎 渡辺、貴公の老功にも似合ない。跡部にその英断あると思ふのが
間違ひなのだ。はゝはゝゝ。先づ、これは中斎に委せて置け。跡部
とて、平八の癇癪は江戸から聞いて来てゐる。そんなへボ将棊はさ
すまい。はゝはゝゝ。瀬田、小泉、どう考へる。
瀬 田 さやう……時機は深く考へなければなりません。
平八郎 小泉。(にて河合を指し、快然と笑つて)序でに、こいつに頭
を下げさせる方法はないか。小胆者の剛情ほど腹が立つものはない
ぞ。
一同、微笑。
河 合 (頭を上げ)先生、手前はまだ、御説に服しては居りません。
平八郎 斯う云ふ執拗だ。はゝはゝゝ。
河 合 わたくしには始終凝問でございます。先生は何故さう切迫した言
葉をお使ひになります。それ天変だ、箒星が出た、一揆だ、謀叛だ、
騒乱だ、われ/\を嚇すために面白づくに仰しやるやうに聞えます。
平八郎 貴様に、この時勢がわかるか。(舌打ち)今の恐るべきは上には
ない。
河 合 然し。
平八郎 もう好い、沢山だ。(顔を顰めて起ち上る)
河 合 先生。
平八郎 (縁側を歩みつゝ、静かに)何故におれは火薬を製造して、格之
助や塾生等に砲術修行をさせるのだ。斯かる人心険悪なる時には、
何時大坂に暴徒が蜂起しないとは限らない。人民の顔を見ろ、怒り
はその面に顕はれてゐる。然るに今のお城のあのざまでは、どうし
てその防ぎをつける。おれはその時の用意までしてゐる。空言、空
論ぢやない。
河 合 然し貴方の御説に随へば、四民の困窮も諸国の暴民も、みな上た
る者の政治が過つてゐるからでございませう。近年の凶饉は悪政に
封する天譴だとさへ仰しやつた。
平八郎 それが何んだ。
河 合 悪政に反抗する暴民に罪はありますまい。何んのために暴民を退
治します。先生の論はいつも矛盾だ。
平八郎 (睨んで)煩さいやつだなア。政治が悪いと極まれば、その時こ
そ、大筒を逆様にして大坂城を撃つだけだ。
河 合 是非、拝見いたします。
平八郎 うゝ、こいつ……。
平八郎、嚇ツとして傍なる大杖を取る。一同驚きて平八郎を支へ、
河合を無理にもとの座に引き戻す。杖は洗心洞学舎の刑罰の具なり。
瀬 田 (平八郎を支えて)先生、今日は郷左も興奮して居りますから……
平八郎 (やゝ慙愧の体にて) いや、俺も慎しんでゐるのだ。然しどう
いらだ
もこいつの顔を見ると気が苛立つて来る。工夫が足りないのだ。
(嘆息)薜敬軒先生は一怒字を治むるために二十年を費したと云ふ
が、深く鑑むべきことだ。(杖を棄て)静坐、瞑目、山林にでも隠
退したい。おれは人を教へる身ではない。
瀬 田 教へると云へば――然う/\先生、今日宇津木兄が長崎遊学から
帰られるのではございませんか。
平八郎 (俯向いて歩みつゝ独語のやうに)おれにも気質一変の時が来て
さき
ゐる。俺のこゝろに杖を加へる者は、曩に山陽、頼久太郎があつた。
今はたゞ宇津木あるのみだ……。
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