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平八郎 (両手を握り合せて、一所を見詰める)おれは然うは考へたくな
いのだ。仮に跡部を敵としても、然う容易に敵を賤しめたくないな
ア。憎いやつほど、強く、大きく見たい。(微笑に紛らしつゝ)貴
公等は敵を然う容易に賤しめて、こゝろに何んの不安も感じないか。
おれは、性癖かなア……おれは憎い敵ほどぐツと睨んでゐないと、
あひて
真剣になれない、力がはいらない。諸君が然う容易に対者を賤しめ
て、満足してゐるのを見ると、寧ろ羨しいやうな気がする。
河 合 駄目だ/\。(とつぜん煙管を叩いて)九郎右衛門、お暇致さう。
先生は今日、饑饉の第二策とやらに御自身酔ひきつてござる。然う
云ふお方なのだ。何よりも先づ、お手前さまの智謀にお酔ひなさる
人だ。(と、立ち上る)
平八郎 (嚇ツとして)郷左、来い、坐れ。
河 合 (立つたまゝ)何か御用でござりますか。
平八郎 えゝ、坐れ。
河 合 (忿然、対坐して)坐りました。
平八郎 (わが脇差を前に置き)これで跡部を斬つて来い。
河 合 何んです。
平八郎 男子、憤りを口にするとき、手すでに刀を抜いてゐる筈だ。それ
ほど跡部の所業を憎むなら、何故彼の役宅に踏み込んで、死をもつ
て彼の非を責めないのだ。危きを見て命を致す、聖教の文字を何ん
と読んだ。
河合、無言、平八郎を睨む。
平八郎 行ひて遂ぐる能はざるは恥なり。又、怒りて威なき者は犯さる、
とも云ふ。貴様は跡部と差し違へて死ぬ決心をなす時、初めてその
言葉を発すべきだ。怯懦者。
河 合 ……
とく え
平八郎 怨誹の言は婦女子すら恥辱とする。汝の如き者は、得に得て義に
失ふ小人だ。一同も然うだ。貴公等は、最後には、跡部に謀叛する
だけの確信あつて、今それを中斎に迫るのか。たゞ、自家頭上の利
害のために紛擾して、天下の災変のために憂ふるところを知らぬと
は何事だ。心を太虚にして良知の心眼を開け。真に憂慮すべき大事
いた
は、天下蒼生の上にある。数年打ち続いて天変地妖、災害ならび臻
さつぼつ けいわく あら
り、昨夜も天文を案ずるのに、殺孛西北に出でて惑の見はるゝは、
殺伐争乱の気が既に国内に動いてゐるのだ。現に先々月は甲州にも
暴民が一揆を起し、近く南部領内にも百姓騒動が起りかけてゐると
いふではないか。おのが損得利害のために、天下の憂患を打ち忘れ
てゐられるか。
一同、粛然として聞く。河合、俯向く。
平八郎 (やゝ声色を和らげ)おれとて組替の話は愉快に聞いてゐるので
はない。が、然し、一段の工夫を要するのはこの時だ。これが若し
反対に西組与力に何か失策があつで、われ/\東組から支配役を出
して、彼方が組替の恥辱をうけるやうな場合であるとしたら、貴公
等は果して中斎に奉行の不法を訴へてくるだらうか。来ないぞ、必
ひそ
らず来ない。(微笑)みな心私かにわが組の手柄と誇つて、西方の
難儀を悦ぶこゝろがあるだらうと思ふ。して見れば、悦ぶものも悲
しむものも、共に私情、私慾だ。正義に発する霊性ではない。寵辱
すうひ わし ひら
に驚き、禍福に趨避するの愚は、既に俺は剳記中に蒙を啓いてある
筈だ。「這裏、微かに禍福生死の念の在るあらば、則ち格物の物字、
も
決して分暁明白なること能はざる也。 如し其念なければ既ち心、
解了す」と、書いてあつた筈だ。若し跡部が大法を紊して、無謀の
組替を行ふならば、その時こそ立つて断然として争ふのだ。風説に
ていたらく
うろたへ愁訴哀願の為体は、われからわれを卑屈して敵に威光をつ
けるやうなものだ。行ふには自から時がある。時機だ。
庄 司 (深く頷首いて) 然う仰しやれば、事の未然に騒ぎ出して、却
つて破綻を招いても困ります。
渡 辺 こりや少し……軽率でしたかな。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その104
『洗心洞箚記』
(本文)
その107
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