とつぜん勝手の方より嬰児の泣き声、けたゝましく聞ゆ。平八郎、
愕然として面色を変じ、やゝ狼狽のさまにて半ば無意識にその障
子を閉さんとして、一同の視線に心付く。躊躇。また徐ろに障子
をもとの如く開く。一同、目をそらし、或は気の毒さうに俯向く。
平八郎 (障子に肩をもたせ、苦しげに瞑目すること少時)おれは今日諸
生に告白しなければならぬことがある。あの嬰児の泣き声だ。あの…
…泣き声だ。(沈黙。また急に顔を上げ)諸君は何んと読んだか知
らぬが、おれは洗心洞剳記のなかに斯う書いて置いた。父に争子―
―争ふ子だ。父に争子あればその父の身は不義に陥らない。故に人
の子たる者その父の不義を見ては、須らく争はなければならない。
かるが故に、人の父たる者は、此の子あるを願はざる可からず。此
み
の子あれば則ち躬は君子たり。此の子無ければ則ち……上智にあら
いてき
ざるよりは大凡のもの……夷狄禽獣に陥ること必せり矣。之を思うて
しようぜん
て悚然たり――と、俺は書いた。(肺腑を搾りて呻吟するごとく文
章を諳誦せしが、急に目を開き、鋭く一同を見て)いや、然し、お
れは今、貴公等に批判を求めてゐるのではないぞ。何事も聞かんぞ、
誰にも聞かんぞ。(屹ッと云ひ放つて、また障子にもたれて沈痛に)
俺は……俺を裁きかねるものではない、また矩 之允もある。おれ
なんびと
の心に合鍵をもたない者の言語は、何人にも俺は聞かない、聞きた
くない……。(瞑目して首を振る)
一同、無言。庄司、渡辺、互ひに目を見合はせてうなづき、痛々し
げに俯向く。河合、しぶとく空嘯きゐる。嬰児の泣き声、止む。大
井正一郎、入り来る。坐る。
大 井 先生、般若寺村の忠兵衛どのが見えました。
平八郎 (救はれし如く、ホツと目を開き)待つてゐた。
大 井 は。
大井、去る。
吉 見 何か御用談なれば、われ/\は御遠慮しませう。
あからさま
平八郎 なに好い。諸君の前に明々地に話したい。おれは自ら刑罰を加へ
なければならない場合なのだ。
般若寺村の富農、橋本忠兵衛(四十一歳)、快活に正一郎と笑ひつゝ
入り来る。忠兵衛は中斎最初の門下生にて、妾おゆうの義兄、養女
おみねの実父なり。
忠兵衛 いや、この饑饉はとてもお話のほかです。二月三月にもなつたら、
世上はどうなりますかなア……。(と姿を顕はし来る)いよ、これ
は、皆さまお揃ひでござりますな。とんともう此の頃洗心洞へも御
無沙汰がちになりまして……。
ゐ ざ
一同、忠兵衛を先輩として扱ひ、瀬田、小泉、座を膝行る。大井、
案内して去る。
忠兵衛 いや/\、瀬田さん。(手を振り)わたしはこれで結構だ。どう
か、どうかお構ひなく。
忠兵衛、下座の同心等の火鉢の傍に坐す。
平八郎、両手の掌を握り合はせて何か考へゐたりしが、突と立つ。
平八郎 橋本、やはり講堂へ来て貰はう。
忠兵衛 何ん……。
そくか
平八郎 先づ足下に話すが順序だらう。聖像の前で話したい。
で か
忠兵衛 何か、出来しやりましたか。(心配さうに見上げる)
平八郎 (落着きなく坐つて)今日、宇津木が長崎から帰つて来る。その
前に、足下に話して置きたいことがあつて、それで使の者を出した
のだ。
忠兵衛 (煙管筒を抜きつゝ)ほう……
平八郎 やはり講堂が好い。橋本。
平八郎、先に立つて講堂へ行く。忠兵衛、不審さうに立つて随ふ。
瀬 田 (庄司の傍に行き、低声)般若寺では知らないと見えるな。
庄 司 (講堂に注意しつゝ不安さうに)どうも、然うらしうございます。
河 合 (不意に立ち)御一統さまはまだでございますか。手前はお暇い
たします。
吉 見 (河合の手を打ち)これ、何んだ。(目くばせして、頸を振る)
河 合 どうして……。
吉 見 今あの……お話をなさつてゐるのだ。
や や
河 合 あの話? 嬰児さまのことか、何んでもないことだらう。格之助
ぢたい
さまのお子にして届け、育てればいゝのだ。地体先生は、わが事と
なるといつも大騒ぎだ。嫌ひだア!
瀬 田 (足踏み、睨む)郷左衛門。
河 合 手前は帰ります。毎日、人騒がせのお相手をしてはゐられません。
河合、忿然去る。一同、無言、講堂に注意す。
やゝ長き間。
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