Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.8.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その8

真山青果(1878-1948)

『真山青果全集 第4巻』 大日本雄弁会講談社 1941 収録

◇禁転載◇

第一幕 (8)

管理人註
  

    とつぜん勝手の方より嬰児の泣き声、けたゝましく聞ゆ。平八郎、     愕然として面色を変じ、やゝ狼狽のさまにて半ば無意識にその障     子を閉さんとして、一同の視線に心付く。躊躇。また徐ろに障子     をもとの如く開く。一同、目をそらし、或は気の毒さうに俯向く。 平八郎 (障子に肩をもたせ、苦しげに瞑目すること少時)おれは今日諸    生に告白しなければならぬことがある。あの嬰児の泣き声だ。あの…    …泣き声だ。(沈黙。また急に顔を上げ)諸君は何んと読んだか知    らぬが、おれは洗心洞剳記のなかに斯う書いて置いた。父に争子―    ―争ふ子だ。父に争子あればその父の身は不義に陥らない。故に人    の子たる者その父の不義を見ては、須らく争はなければならない。    かるが故に、人の父たる者は、此の子あるを願はざる可からず。此               の子あれば則ち躬は君子たり。此の子無ければ則ち……上智にあら                いてき    ざるよりは大凡のもの……夷狄禽獣に陥ること必せり矣。之を思うて     しようぜん    て悚然たり――と、俺は書いた。(肺腑を搾りて呻吟するごとく文    章を諳誦せしが、急に目を開き、鋭く一同を見て)いや、然し、お    れは今、貴公等に批判を求めてゐるのではないぞ。何事も聞かんぞ、    誰にも聞かんぞ。(屹ッと云ひ放つて、また障子にもたれて沈痛に)    俺は……俺を裁きかねるものではない、また矩 之允もある。おれ                    なんびと    の心に合鍵をもたない者の言語は、何人にも俺は聞かない、聞きた    くない……。(瞑目して首を振る)    一同、無言。庄司、渡辺、互ひに目を見合はせてうなづき、痛々し    げに俯向く。河合、しぶとく空嘯きゐる。嬰児の泣き声、止む。大    井正一郎、入り来る。坐る。 大 井 先生、般若寺村の忠兵衛どのが見えました。 平八郎 (救はれし如く、ホツと目を開き)待つてゐた。 大 井 は。    大井、去る。 吉 見 何か御用談なれば、われ/\は御遠慮しませう。                あからさま 平八郎 なに好い。諸君の前に明々地に話したい。おれは自ら刑罰を加へ    なければならない場合なのだ。    般若寺村の富農、橋本忠兵衛(四十一歳)、快活に正一郎と笑ひつゝ    入り来る。忠兵衛は中斎最初の門下生にて、妾おゆうの義兄、養女    おみねの実父なり。 忠兵衛 いや、この饑饉はとてもお話のほかです。二月三月にもなつたら、    世上はどうなりますかなア……。(と姿を顕はし来る)いよ、これ    は、皆さまお揃ひでござりますな。とんともう此の頃洗心洞へも御    無沙汰がちになりまして……。                            ゐ ざ    一同、忠兵衛を先輩として扱ひ、瀬田、小泉、座を膝行る。大井、    案内して去る。 忠兵衛 いや/\、瀬田さん。(手を振り)わたしはこれで結構だ。どう    か、どうかお構ひなく。    忠兵衛、下座の同心等の火鉢の傍に坐す。    平八郎、両手の掌を握り合はせて何か考へゐたりしが、突と立つ。 平八郎 橋本、やはり講堂へ来て貰はう。 忠兵衛 何ん……。       そくか 平八郎 先づ足下に話すが順序だらう。聖像の前で話したい。         で か 忠兵衛 何か、出来しやりましたか。(心配さうに見上げる) 平八郎 (落着きなく坐つて)今日、宇津木が長崎から帰つて来る。その    前に、足下に話して置きたいことがあつて、それで使の者を出した    のだ。 忠兵衛 (煙管筒を抜きつゝ)ほう…… 平八郎 やはり講堂が好い。橋本。    平八郎、先に立つて講堂へ行く。忠兵衛、不審さうに立つて随ふ。 瀬 田 (庄司の傍に行き、低声)般若寺では知らないと見えるな。 庄 司 (講堂に注意しつゝ不安さうに)どうも、然うらしうございます。 河 合 (不意に立ち)御一統さまはまだでございますか。手前はお暇い    たします。 吉 見 (河合の手を打ち)これ、何んだ。(目くばせして、頸を振る) 河 合 どうして……。 吉 見 今あの……お話をなさつてゐるのだ。           や や 河 合 あの話? 嬰児さまのことか、何んでもないことだらう。格之助                        ぢたい    さまのお子にして届け、育てればいゝのだ。地体先生は、わが事と    なるといつも大騒ぎだ。嫌ひだア! 瀬 田 (足踏み、睨む)郷左衛門。 河 合 手前は帰ります。毎日、人騒がせのお相手をしてはゐられません。    河合、忿然去る。一同、無言、講堂に注意す。    やゝ長き間。
















『洗心洞箚記』
 (本文)
その104


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