Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.5.16

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「未遂既遂の米騒動」

その11

三田村鳶魚

『お江戸の話』雄山閣出版 1924 所収

◇禁転載◇


七年掛りの暴動 (1)

 天明元年九月には七斗を呼び、百文に一升であつた、各町の名主から月見団子廃止を触れた、

二年六月には百文に八九合となつたので、曲淵牧野の両町奉行は、粥食を奨励した、

三年五月に至つては六斗三升を呼び、七月には五斗二升、百文に七合となり、九月に入つては四斗二升、百文に五六合と吊り上げた。

連年の不作の処に、今年は関東筋の洪水、浅間山噴火、八月に入つての寒気で、全く凶作と見定められた。此の時江戸の商家九十二軒を指定して上納金をさせ、其の資力で大阪買米をして、四斗二升の市価なのに七斗で売り出した。

斯う した時節であるのに、回向院の谷風小野川は大評判で、角觝(すまふ)は未曾有の繁昌であるのみならず、芝居も御開帳も岡場所も賑はしいのは大に注意したい。

四年正月には 小網丁の廻船問屋が協同して、毎朝六ツから四ツまで施米をした、時刻を過ぎて来た者は銭十六文宛を与へた、これは幾日間のことか知れない。

二月になつても両に四斗二升、百文に五合という相場で居る。無宿小屋が六万坪へ建てられて飢民を収容したが、三月になつては諸方とも人減しといふので、乞丐(こじき)が頓(とみ)に増加するのを見て、曲淵甲斐守は自身も二食にして、一般の減食を促した。

此の三月二十四日に、新御番の佐野善左衛門が、若年寄田沼山城守意知を柳営で斬殺した、世間で云ふやうに、系図を取上げた遺恨の根本ではない、佐野は野州の佐野ではない、善左衛門の系図にも立派に本国三河とあつて、勿論秀郷の後裔でもない、善左衛門の知行は五百石であつたが、内福な旗本であつたので、当時流行の猟官運動を思ひ立ち随分入費を借まずに田沼の家来達へ取り入つたが、未だ何等の効果もないのに、手許が窮迫して来た、それが山城守に対して意逮遺恨を作つた根元である、だが田沼山城守の斬殺された翌日から、市中の米価は頓に気配が挫けて、ジリ\/下りに七月の下旬には七斗四五升、晦日には八斗九升を唱えた。

尤も六 月百文に米が五合、ふすまが四升、糠が六升といふ時に、幕府は大阪買米を百文一升で、各町役人へ人別に依つて割渡した、此の年は青田から豊稔が予見された為めに、冬相場を待たずに下落したのである、それは別に不思議もないが、唯だ田沼山城守の斬殺が米価に影響し、其の後の下落も斯の人の逝去に因るが如くに思はれたのは何の訳か。

当時二人組の乞丐が、七ツ梅(田沼家の定紋は七曜星)の酒筵(さかこも)を着たのが、鬼の面を被つて逃げ廻ると、剣菱の酒筵を着て鐘馗(しようき)の面を被つたのが追つ駈ける。さうした物貰ひが出て来たのは、徒に市民が田沼氏に反感を持つたのを表示したのではない。

四月七日に山城守意知の葬儀が執行されて、神田橋の本邸から駒込蓬莱町の勝林寺への沿道、特(こと)に本郷通りでは罵詈嘲弄では済まず、行列の上に瓦礫の雨が隆つた。従行の家来が拠なく群衆中から若干を押へて町奉行へ引渡した、此節町方では疫病が甚しく流行するから私共は疫病神送りを致した、其処へ折悪しく山城守様御 葬送が参り合せたのにも心附かなかつたので、何か御葬送を囃したやうに聞えた段は重々恐れ入つた次第であると陳弁したのを、曲淵甲斐守は左様であつたかで放免した、曲淵に多少の諒解はあつたらしいが、これ以上の措置は出来なかつた、彼も田沼氏に引き立てられた一人だけ、苦しい処もあらう。

それのみか勝林寺の門前には、多数の菰を被つた乞丐が屯集して居て、葬儀行列の通過を妨げる、叱からうが制さうが平気で、切るなら切れ、寺で死ぬのは注文だと口々に叫ぶ、田沼の家来は、乞食一人に銭五十文と白飯一盂(う)とを与へて、漸く解散させた、斯くの如き凌辱を受けた大名は、江戸三百年を通じて他に一人もない。


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